黄昏フィッシャーマン
一ヶ月ほど前に知り合いになった地元の漁師と、土曜日の昼下がりに地域の小さな図書館でばったり出会い、そのまま図書館の休憩所で紙コップに入ったインスタントコーヒーを飲みながらしばらく話をする。
特にかしこまった話や難しい話をしたわけではないのだが、彼の話を聞いていて、改めてではあるのだが、食べるという行為について考えさせられた。
漁師という仕事が死と隣り合わせだということ。生きてゆくということは、本来そういうものだったはずだ。自分以外の命を食べて生きてゆくわけだ、そこに自分の命だけが特別扱いされているわけはない。
けれど大型スーパーマーケットで魚の切り身を買って帰って食べるという行為には、そういう意味での命の危険はずいぶんと少ないように思う。保冷棚に山のように積まれた魚の切り身、あれが命と認識出来る人がどれだけいるだろうか。
あるいは、もしかしたら、何かの存在が定める世界のルールのようなものがあって、人間だけは全く別な意味での命の危険を犯して、そういうものを食べているのかもしれないと、ふとそう思った。
でもぼく個人としては、もっともっと自然に命の危険を犯して生きてゆくほうが、どれだけ幸せか知らんと、そう思う。
小さな漁師町の外れにある真新しい図書館には、ぼくと彼以外に利用客はおらず、貸出カウンターに座っている子狐のようなキュートな容姿をした女性が、眠ったように動かないままパソコンのモニターを見つめている。
別れ際、彼は車の中に置かれたクーラーボックスから山程のイカを取り出してきて、ぼくに食べてくれと言った。下処理して一度冷凍にしてあるが、今日捕れたてのイカを彼の母親が捌いたものだという。
「私が捌くともっと雑になるんだけれど、母は綺麗に捌くんです。半解凍して切って刺し身でいけます。」
家にたどり着く頃には日が傾き始めていて、山の上半分が熟したようなオレンジ色をしていた。ぼくはその山の姿をずっと頭に残したまま家に帰り、その山のことを思いながら夕食の支度を始めた。冷蔵庫に残る少しの野菜でサラダを作り、豆腐を切って薬味のネギをきざんだ。そこまで準備してしまってからシャワーを浴び、一日の汗を洗い落とした。
引っ越したばかりでほとんど何もない部屋の食卓は、この数日はダンボールの空き箱の上に手ぬぐいを敷いたもの。そこにキュウリだけのサラダと冷奴とイカの刺身を並べる。一ヶ月前にビールを飲むことをやめたので、この頃は小さなぐい呑みで日本酒を飲んでいる。
「地元の魚のほとんどは、実は地元では食べられていないんです。こんなすぐそこに海があるのに、地元の多くの人はスーパーで買ってきた外国の魚や、遠く北国から輸送されてくる魚ばかり食べているんですよ。そして地元では、流通に乗せるには規格外だと言って、捕ってきた魚の多くを廃棄しているんです。海にそのまま捨てている人たちもいる。昔はそんなことはなかったはずなのに、いまは何かが狂っている。その狂ったことにすら気が付けないほどに、狂っているんです。」
もらったイカは驚くほど透き通った甘さをしていたが、それは命を食べているからだろうか。
月白貉