ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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黄昏フィッシャーマン

一ヶ月ほど前に知り合いになった地元の漁師と、土曜日の昼下がりに地域の小さな図書館でばったり出会い、そのまま図書館の休憩所で紙コップに入ったインスタントコーヒーを飲みながらしばらく話をする。

 

特にかしこまった話や難しい話をしたわけではないのだが、彼の話を聞いていて、改めてではあるのだが、食べるという行為について考えさせられた。

 

漁師という仕事が死と隣り合わせだということ。生きてゆくということは、本来そういうものだったはずだ。自分以外の命を食べて生きてゆくわけだ、そこに自分の命だけが特別扱いされているわけはない。

 

けれど大型スーパーマーケットで魚の切り身を買って帰って食べるという行為には、そういう意味での命の危険はずいぶんと少ないように思う。保冷棚に山のように積まれた魚の切り身、あれが命と認識出来る人がどれだけいるだろうか。

 

あるいは、もしかしたら、何かの存在が定める世界のルールのようなものがあって、人間だけは全く別な意味での命の危険を犯して、そういうものを食べているのかもしれないと、ふとそう思った。

 

でもぼく個人としては、もっともっと自然に命の危険を犯して生きてゆくほうが、どれだけ幸せか知らんと、そう思う。

 

小さな漁師町の外れにある真新しい図書館には、ぼくと彼以外に利用客はおらず、貸出カウンターに座っている子狐のようなキュートな容姿をした女性が、眠ったように動かないままパソコンのモニターを見つめている。

 

別れ際、彼は車の中に置かれたクーラーボックスから山程のイカを取り出してきて、ぼくに食べてくれと言った。下処理して一度冷凍にしてあるが、今日捕れたてのイカを彼の母親が捌いたものだという。

 

「私が捌くともっと雑になるんだけれど、母は綺麗に捌くんです。半解凍して切って刺し身でいけます。」

 

家にたどり着く頃には日が傾き始めていて、山の上半分が熟したようなオレンジ色をしていた。ぼくはその山の姿をずっと頭に残したまま家に帰り、その山のことを思いながら夕食の支度を始めた。冷蔵庫に残る少しの野菜でサラダを作り、豆腐を切って薬味のネギをきざんだ。そこまで準備してしまってからシャワーを浴び、一日の汗を洗い落とした。

 

引っ越したばかりでほとんど何もない部屋の食卓は、この数日はダンボールの空き箱の上に手ぬぐいを敷いたもの。そこにキュウリだけのサラダと冷奴とイカの刺身を並べる。一ヶ月前にビールを飲むことをやめたので、この頃は小さなぐい呑みで日本酒を飲んでいる。

 

「地元の魚のほとんどは、実は地元では食べられていないんです。こんなすぐそこに海があるのに、地元の多くの人はスーパーで買ってきた外国の魚や、遠く北国から輸送されてくる魚ばかり食べているんですよ。そして地元では、流通に乗せるには規格外だと言って、捕ってきた魚の多くを廃棄しているんです。海にそのまま捨てている人たちもいる。昔はそんなことはなかったはずなのに、いまは何かが狂っている。その狂ったことにすら気が付けないほどに、狂っているんです。」

 

もらったイカは驚くほど透き通った甘さをしていたが、それは命を食べているからだろうか。

 

黄昏フィッシャーマン

 

 

 

 

月白貉