東京ラプソディ、あるいは東京への狂った詩的感情日記。
数週間前、ある人に聞かれた。
「東京には戻らないの?」
その残響のようなものが、今でも頭の中を巡っている。
初対面の人間だったこともあり、適当な返答をしておいた。
「近々では考えていないし、いまは、よくわからない。」
今まで東京という土地で一番長い時間を過ごしていることを除外したとしても、東京という土地の魅力は大きいかもしれない。
その魅力とは、おそらくだが、他の場所にはない真新しい物が、特出的に転がり続けていることだけでは、決してないだろう。
近年、地方が東京を模倣したような都市化をはじめているが、地方がその特色を無理矢理に塗り潰して都市化する必要など一切ないとぼくは思っている。それは悪い意味でバランスを崩すことになる。
その土地々々には、残すべきことと、やるべき事柄が無限にある。日本という国はそういうことを圧倒的に無視し、破壊し続けている。
若者が東京を求めることには正直、ある時期は疑問を感じていたが、東京を長く離れて改めて考えてみると、その理由は理解できるようになった気がする。
その理解の一端にある感情を何かに例えたいが、一体なんだろうかと、手が止まる。
今日、午後から映画を鑑賞した。
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥによる『BIUTIFUL ビューティフル』(Biutiful)という作品である。
スペインのバルセロナにおける都市部の表裏や、貧困、移民問題、生と死、『シックス・センス』のような側面も描かれていた。
ぼくの中にこの数週間蠢いている残響と、良いか悪いかは分からないが、一部融合するような映画だった。
酒を飲みながら書いているので、なかなか視点が定まらないが、もう今日の手の動きはこれで終えよう、震えて半ば腐った指で自分の目をえぐる前に。
この後、午前中にぼくの家を訪れた少女がくれたブラウニーを食べながら、わずかに残った赤ワインを飲み干す。
それでも飲み足りなければ、自らの血を飲み干そう。
ブエナスノチェス
月白貉