座敷わらしが見える時間、その理論と実践。
夕暮れ時に家に帰ると、玄関の靴入れの上に、A4サイズのボロボロに使い込まれたようなノートが置いてあった。
まったくブランド名などは記されていない無地のものだったが、表紙の中央には黒くて太いマジックで『理論と実践』という文字が、子供の落書きのような荒々しい筆跡で、大きく書きなぐられていた。
そして表紙の右下には、おそらくは所有者の名前を記入するためのスペースとして、細くて短い横線が一本引かれていて、そこには何度も名前を書きなぐっては消し、書きなぐっては消したような跡が見られたが、削り取るように消されているその文字は、まったく読めなかった。
一体誰のものだろうと気にはなったものの、そのまま靴を脱いで玄関を上がり台所にゆくと、母が流し台に向かって夕餉の準備をしているようだった。
「ただいま。」
「ああ、おかえり。」
ぼくは冷蔵庫からパックの牛乳を取り出してコップに注ぎ、テーブルの上のカゴの中に山盛りになっているビスケットの小袋を手で幾つか掴みとると、台所を出て二階の自分の部屋に向かおうとして玄関脇の階段に足をかけた。
「ああ、おかえり。」
台所の方から母の声が聞こえる。
ぼくは振り返って玄関を見るが、そこには誰もいない。台所の中にも、母以外には誰もいる気配はない。玄関にはまったく靴が置かれていなかったから、姉もまだ家には帰ってきていないはずだった。
ぼくは台所に戻って、手にコップとビスケットを持ったまま、意味もなく台所の中をぐるっと見回す。その気配に気が付いた母が振り返って、声には出さないが「どうしたの?」という顔をしている。母の顔が、少しぼやけて見えるような気がした。
「誰に、おかえりって言ったの・・・?」
「えっ、誰か帰ってきたでしょ、あんたのすぐ後に。ヨシコ?」
「帰ってきてないでしょ・・・、誰も。」
「あらそうだった、はははははっ、お母さん間違えちゃった。誰か台所に入ってきてただいまって言った気がしたから、おかえりって言っちゃった、あんたに二回言ったのかしらね。」
ぼくは首を傾げながら台所を出て、再び玄関先の階段に足をかける。
「あれ?」
さっき玄関の靴入れの上に置かれていたノートがなくなっていたように思った。振り返って見てみると、やはりノートがなくなっている。それが気になったぼくは靴入れの前に行き、下に落ちたのかと思って玄関の周囲を見渡してみるが、ノートは見当たらない。そのままふと台所に目を向けると、テーブルの上にさっきの薄汚れたノートが置いてあるのが目に入る。
すると台所からまた母の声が聞こえてくる。
「ちょっとお菓子そんなに持ってかないでよ、すぐ夕飯になるわよ。」
ぼくはまた台所に小走りで駆け戻る。
「誰と話してんのっ!」
母は振り返ってポカンとした顔をしているが、やはり母の顔がおかしな風にぼやけて見える気がする。
「あんたがいま、お菓子ゴソゴソ持って行こうとしたでしょう。」
「してないよ・・・、さっき二三個取っただけだよ・・・。」
テーブルに目を向けると、カゴの中に山積みになっていたビスケットの小袋がバラバラとテーブルの上に飛び出していて、床にまで落ちている。そして、今さっき玄関から見えたあのノートがまた、なくなっている。
ぼくの体に一瞬ザザッと寒気が走り、体も顔もまったく動かさずに、目だけを動かして台所中を見回すが、特に目立っておかしな様子は見受けられない。
「あとね、冷蔵庫、何度も何度もバタバタ開けないでよ、夏なんだからさ。」
「いや・・・開けてないよ・・・。」
「開けてたでしょう。」
「階段から聞いてたら、母さんひとりでなんかしゃべってたでしょ・・・。その時、オレここにいないし・・・。」
「や〜ね、気味悪いこと言わないでよ、だってずっとあんた台所にいたでしょう。」
「だから、いないよ・・・。」
「はいはい、わかりました。じゃあお母さんの気のせいね。なんかや〜ね〜、座敷わらしでもいるのかしらねえ。はははははっ。キャハハハッ!」
母が流し台の方に向きなおりながら、一瞬奇妙な甲高い笑い声をあげたような気がした。
その時、ノートのことが急に気になったぼくは、母にそのことを言ってみようと思ったのだが、直感的に何かに押しとどめられるような感覚があり、思いなおしてノートのことには触れないまま、小さなモヤモヤとした不安を抱えて、ゆっくりと台所を出て階段に向かった。
玄関のところまで来た時、あるいはぼくの勘違いで玄関にノートが落ちているんじゃないかとふと思い、再度目を凝らして玄関を隅々まで見ていると、玄関の引き戸がガラガラと開いて誰かが入ってきた。
それは、今さっき台所にいてぼくと言葉を交わしていた、母だった。
しかしその母の顔は、なぜかぼやけるように黒く霞んでいて、よく見えない。
母の脇には、その右足にしがみつくようにして、真っ黒いクマの着ぐるみのようなものを身にまとった子供が立っている。その子供は、顔の部分に髪の毛がバッサリと垂れ落ちていて、口元の辺りしか見ることが出来ない。
ぼくは無言のまま、風を切るようにして台所の方に振り返る。
そこには誰の姿もなく、電気も消えていて、しんと静まり返っている。
「母さんっ!?」と半ば叫ぶようにして玄関を見ると、そこにも、もう誰もおらず、玄関の戸は閉まっている。
台所に置かれた電話がプルルルルル、プルルルルルといって鳴り出したので、びっくりして飛び上がって、コップの牛乳を床にこぼしてしまう。
まったくわけがわからず、何をしていいのか考える余裕もなく、しばらくの間玄関に立ち尽くす。
鳴り続ける電話の音で急に我に返ったぼくは、コップとビスケットを靴入れの上に置き、台所で鳴っている電話の方に歩いていって、受話器をとって耳に当てる。
「あ、もしもし、お母さんだけど、シンヤ?ごめんごめん、ちょっとね、迷子の子供を交番に連れて行ってたら遅くなっちゃって、今からすぐ帰って夕飯の支度するから、ヨシコが帰ったら、先にご飯だけ炊いといてって言ってくれる。それじゃあ、よろしくね。」
「あ・・・、ちょっと母さん、いまは・・・、いまどこにいるの・・・?」
「いまね、歩いてて、ちょうど図書館のところだから。」
「あ・・・、そうか・・・、わかった・・・。」
「はい、じゃあね。キャハハハハハハッ!ガチャッ。」
電話の向こうで、急になぜか母の声ではなく、子供のような甲高い笑い声が大きく響いて、そのまま電話が切れた。
ぼくは唖然としながら電話の受話器をゆっくりと置き、何気なく台所の壁の時計に目をやると、時計の針はちょうど十八時を指していた。台所の中は、窓の曇りガラスから差し込む夏の夕日で、ピンク色のようなオレンジ色のような不思議な色に染まっていて、けれど空気が凍ったようにして、静まり返っている。
その時、トイレの水を流す音が家の中に響き渡ったかと思うと、誰かがドンドンと足音を鳴らしながら台所に入ってきた。
「あら、おかえり。」
今の今電話の向こうで、図書館の辺りにいると言っていた母が、そこに立っていた。
そしてまた、さっき玄関で見たのと同じように、おかしな具合に顔のあたりが黒く霞んでいる母の脇には、やはり母の右足にしがみつくようにして、玄関で見たのとまったく同じ真っ黒い子供が、あのノートを手に持って立っていて、その口元は無邪気に笑っていた。
その時再びぼくの耳に、玄関の引き戸がガラガラガラと開く音が聞こえ、「ただいま。」という聞き覚えのある母の声がこだました。
台所の中に漂う残りわずかな陽の光が、もうすぐ完全に消えようとしていた。
月白貉