ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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第3話「悪魔」- 昨日の神話

友人の三浦から雨の降る土曜日の午前中に電話があり、これから池袋に靴を買いに行くので付き合ってくれないかと言われた。その日は特に用事はなかったが、朝から強い雨が降っていたので外出をする気分ではなかった。朝6時に目を覚まし、トースト1枚と山盛りのレタスで早めの朝食を済ませた後に風呂場とトイレの掃除をこなし、しばらくぼんやりと窓の外の雨を眺めてからインスタントのコーヒーをいれ、それを飲みながらソファーに深く座り込み昔のホラー映画を観ていた。

 

そして物語の終盤でゾンビの溢れかえった町に核爆弾が投下されるシーンの只中に、ぼくのスマートフォンが三浦からの着信を知らせてきた。

 

これから池袋のABCマートにスニーカーを買いにゆくのだが、自分はスニーカーに関してあまり詳しくないので一緒に選んでくれないかということだった。そしてその代わりに昼飯を奢るとも言った。彼の誘いに対して即答することができなかったぼくは、10分だけ考えてかけ直すから待っていてくれと彼に伝え電話を切った。

 

ぼくが即答できない理由は3つあった。まず基本的には雨の日の休日に外出することを極力避けるようにしているということ。そこに特に大きな理由があるわけではないがそれが自らが握りしめている不透明なこだわりだった。次にぼくも三浦と同じようにスニーカーに関しては大して詳しくなど無いということ。ただ仕事柄日常的にスーツを着るという習慣も必要もなく、持っている靴と言えば特定のブランドに固定したスニーカーばかりだったから彼にはぼくがスニーカーに詳しいかのように見えたのかもしれない。けれどぼくはスニーカーには詳しくはないので、彼にスニーカーを見立てるという役割を担いきれないと思ったこと。最後に、そのふたつの断る理由と同等かそれ以上の重さのものとして、彼がぼくの唯一と言っても差し支えない友人だということ。

 

ぼくはきっちり10分後に彼に電話をかけて、10時30分に池袋の芸術劇場の地下で待ち合わせることにした。待ち合わせ場所を芸術劇場にしたのは彼の提案で、自分がはじめて女性とデートをしたのが芸術劇場だったので、池袋で誰かと待ち合わせする際には必ず芸術劇場にしているという奇妙な理由だった。さらに地下にするのはトイレがすぐ傍にあるから安心するとも言っていた。

 

人は誰しも他人には理解できないこだわりを持っている。ぼくが雨の日の休日に外出したくないとか、アディダスの白のスニーカーしか履かないとか、生野菜には決してドレッシングなどかけないとかいうこだわりがあるのと同じように、自分だけのための歪な塊を抱えて、人は生きている。

 

ぼくが10時15分に芸術劇場の地下に着くと、三浦はすでにそこでぼくを待っていた。彼はぼくを視覚に捉えるとものすごいスピードで走り寄ってきて、ぼくの肩に手をかけると耳元に顔を寄せて荒い息遣いを必死に押さえつけながらこう囁いた。

 

「奥のトイレの入口の脇に立っている老人を見ちゃダメだ・・・、あれは人じゃない。」

 

三浦に肩をがっしり握られたぼくは、見ては駄目だと言われた方向に無意識に目を向けてしまった。すると彼の言うように男性用のトイレの入口の脇に、トレンチコートを着た背の低い老人が立っていてこちらをじっと見つめていた。何か気味の悪い笑顔を浮かべているようにも見えたが、ぼくが老人に目を向けていることに気が付いた三浦が再び囁いた。

 

「見ちゃダメだよ・・・。」

 

「えっ、ぼくにも老人がいるのが見えるよ、人じゃないってどういう意味?」

 

三浦の体は少し震えていて、そのわずかな震えがぼくの肩を握る彼の手から伝わってきていた。彼の顔からは明らかに血の気が失せていて、貧血を起こした病弱な少年のように曇った水色をしていた。ぼくが再び一体どうしたんだと問いかけると、彼は恋人にキスでもするかのように顔を近付けてこう言った。

 

「あれは悪魔だよ・・・。」

 

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