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ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲が自らの感覚で日本を歩きまわって見聞を広めたように、故郷を離れて旅を続けるぼくが、ぼくの感覚でその土地を歩き回って、見たり聞いたり嗅いだり触ったりした、ぼくの見聞録です。

もし怖い夢をみたら、誰かに話せば忘れるという魔法。

小説 小説-短編

「ねえ、ユウ。」

 

ぼくの座っている椅子のすぐ横の床に仰向けに寝転んで、ナツミはぼくの足首を静かに握っていた。朝の六時を過ぎた世界が、夏の頃とは打って変わって、それが朝なのか夜なのかわからないような顔をして、くすんだ青か灰色の息を吐きながら立ち尽くしているのが、窓の外に見えた。季節はいつだって変化してゆき、それはぼくがどうにか出来ることの中には、決して入れられないものだった。入れようと思ってどんなに必死で季節の秘密を探しまわっても、それは見つけられなかったし、たぶん端から見つけようとなんかしてないのかもしれないけれど、でもきっと、その季節はじっとぼくの方を見ていて、もうぼくのことを見つけていて、そしていつでも、ぼくのことを飲み込むことが出来るのだろうと、ぼくは時々ふと思うことがあった。

 

「なに?」

 

「一生懸命にさあ、一生懸命に生きていく必要なんかさあ、あるのかなあ?」

 

ナツミはぼくの足首から手を離して、ぼくとは反対の方に体を捩らせて動かなくなった。確かではないが、少しだけ泣いているように思えた。

 

「どうかしたの?」

 

ぼくがテーブルの上のノートパソコンのキーボードを静かに叩くと、そのカサカサとした音だけが部屋の中に響き渡り、後は何も聞こえなかった。ぼくの心臓の音も聞こえなかったし、ナツミの心臓の音も、息をする音も、まったく何も聞こえなかった。だからいまこの瞬間が一体どれだけの長さをしているのかということが、ぼくにはよく把握できなかった。少しだけ窓の外に目を向けると、やはりそこは薄く青黒く沈んでいて、ただ遠くに見えるマンションの給水塔の上に、何かぼんやりとした気配のようなものがあるのがわかった。もしかしたら、あれはぼくにしか見えない、時間のかけらのようなものなのかもしれないと思った。

 

「怖い夢を見たの。」

 

もし怖い夢をみたら、誰かに話せば忘れるという魔法。

 

ナツミがまたぼくの方に体を捩って、足首を掴んでからそういった。床にペタリと引っ付いている彼女の横顔を見ると、目から透明なミミズのような筋が頬を伝っていた。

 

「そっか・・・、怖い夢か。怖い夢をみた時には、誰かに話したほうがいいよって、確かきみが、きみと出会った頃に、言ってたよね。だから・・・、」

 

「知ってる。だから今、ユウに話してるの。これから話そうと思ったの。」

 

「そっか・・・、きょうは、おれは一日何の予定もないし、たぶんずっとでも聞いていられますよ。だから、どうぞ。」

 

ナツミは目を開いてはいたが、ぼくには眠っているように見えた。

 

「あたしね、まだユウには話していないことが、たくさんあるんだよ。」

 

「うん。」

 

「でも、それでもいいでしょ。」

 

「うん、いいよ。別におれだって、きみに話してないこと、たくさんあるから。」

 

「知ってる。」

 

ぼくは、しばらく黙って、また窓の外に目を向けた。外の闇がずいぶんとその姿を潜め出していて、マンションの給水塔の上にいた気配は、いつの間にかもう、いなくなっていた。

 

「時々さあ、どうでもよくなっちゃうの。いろんなことが、どうでもよくなっちゃう。毎日毎日、真剣にいろんなこと考えてもさあ、どうにもならないことがあるでしょ。だから時々、どうでもよくなっちゃうよ。」

 

「うん、それでいいと思いますよ。おれも、時々どうでもよくなっちゃうもん。」

 

「知ってるよ、ユウはすぐ、どうでもよくなっちゃえるから、いいなあって思う。」

 

「そんなすぐなっちゃいませんよ・・・。」

 

ナツミがまた、ぼくの足首からそっと手を離して、体を捩らせた。

 

「あたしね、弟がいたの。」

 

「・・・、そっか。」

 

「でも、もう死んじゃったんだ。ずっと前に、私がまだ小さい頃に、死んじゃった。」

 

「そっか・・・。」

 

「ねえ、もしさあ、あたしが公園の横の川に身を投げるって言ったら、ユウも一緒に身を投げてくれる?」

 

「あの川・・・、ずいぶん浅いですよ・・・。」

 

「知ってる。でも、あたしがそう言ったら?」

 

「うん・・・、いいよ。きみがどうしてもって言うなら、あまり気は進まないけれど、一緒に身を投げますよ。」

 

「よしっ。・・・今日でも?」

 

「今日はちょっと・・・、急すぎるなあ。せめて二三日前には言ってくださいよ・・・。」

 

「わかった。当分しないと思うから、大丈夫。だってあそこ、浅いし。」

 

「はい・・・、ずいぶん浅いですよ。」

 

「お腹すいたからさあ、コンビニにサンドイッチ買いに行こうよ。」

 

「えっ・・・、ごはん炊いてあるでしょ。それにコンビニのサンドイッチなんか、きみ不味いから食べないよって、いつも言うじゃない。」

 

「いいの、今はそういう気分でしょ。」

 

「つまり、散歩に行きたいってことね・・・、わかりましたよ、じゃあ行きますか。ってかさあ、怖い夢の話はどうなったの・・・?」

 

ナツミは発泡スチロールみたいにストンと立ち上がった。

 

「もう忘れた。」

 

生き方なんて、わざわざ無理に変えようと思わなくても変わってゆく。 もしほんの少しでも、そう願う気持ちがあれば、いずれ変わってゆく。ぼくに変わろうと願う気持ちがわずかでもあれば、もし変わる前にぼくが死んでしまったとして、この世界に生き残ったぼくの気配のようなものが後を引き継ぎ、その在り方が、いずれ変わってゆくだろう。そして、多くの誰かが言うように、努力だとか行動だとか、そういうものが生き方に影響を及ぼすなんてことは、実際にはないんじゃないだろうかと、ナツミに出会ってから、ぼくはそう強く思うようになった。

 

生き方を変えるのは、ささやかな祈りにも似た、風向きのようなものなのかもしれない。

 

努力とか行動で変わるのはきっと風向きではなく、それは一時的に我が身から発する熱が巻き起こす人工的な突風であって、それは決して風向きではない。だからたぶんそのつくられた風では、生き方は変わらないのだろう。あるいは努力とか行動とか、その先にある成功とか失敗とかでも、変えられるものもあるかもしれないけれど、それで変わるのはまた、まったく別のものだろう。それではたぶん、生き方は変わらないのだと思う。

 

そして、風向きは自分でどうにかできるものではない。ぼくを何処かでじっと見つめている季節や、マンションの給水塔の上にいた時間や、世界のあらゆる場所で静かに開きつつある漆黒の穴のように、それは人間がどうこうできるものではない。

 

 

だからぼくは時々、あてもなく祈るのかもしれない。

 

気が付くと窓の外の闇は消え去り、ぼくとナツミの周りのどこかから、たくさんの虫や鳥の鳴き声が、交じり合って聞こえ始めていた。

 

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月白貉