原初の男
東京都渋谷区、午前七時十三分
「あなたに、あの男のことをお話する必要があります。
少なくともこの騒動を収めるまでに一度は、少なくとも一度は、私たちが相対せざるを得ない存在です。」
地下へと向かう古びたエレベーターの中は、狭くて薄暗くて、何よりも不快極まりない湿度を帯びていた。時折二人の頭上で切れかかった電灯が稲光のように点滅した。雷鳴は轟かなかったが、嵐が確実にこちらに迫ってきていることだけは確実だった。いや、嵐は迫ってきているのではなかった。遠ざかりも近付きもせず、そこで巨大に膨れ上がろうとしている嵐に必死で向かっていっているのはこちら側だった。
電灯が点滅するたびに、ぼくは無意識に何度も天井を睨みつけた。
ガタガタと不規則に揺れ動くその空間は、人工的な設備のような気配をまったくもっておらず、何か恐ろしいものから逃れる途中でやむをえず滑り込んだ深い森の中の岩の割れ目のようだった。そこには階数表示版などはもちろんついておらず、大きな工場に置かれた何かを圧縮する機械を動かす際の動作スイッチのような、赤と青の二つの無骨なボタンだけが開閉するドアのすぐ横の壁に張り付いていた。
「あの男のことは、実を言えば私もさして詳しいことなど知らないのです。
あなたと同程度の知識しかおそらくはありません。ですから白酒さん、これから手短にお話することは気休め程度と思ってください。」
ぼくは声なく頷いた。
「その男は、対抗勢力からは“ファースト”と呼ばれています。
それはご存知だと思います、ただ、私たちが数時間前に一戦交えた“セカンド”などというものとは一緒に考えないでください。あんなものは私から言わせると、ただのゴミ屑です。セカンドという大層な呼び名が付けられていますが、あれは単なる識別のためであって、もともとは私たちと同じ人間です。一族の者と同等かのように自らを名乗り、そして振舞っていましたが、かつては某国の中枢に属していた諜報部員、その成れの果てがアレなわけです。」
「じゃあ、浦島さんと・・・」
「はい、ご存知のとおりです。本題に参りましょうか。」
「ファーストは・・・、その男は、吸血鬼などという概念が生まれる遥か以前からのものです。話によれば、その年月は数億年とも言われています、冗談は抜き取った話です。吸血鬼だとか人類だとか、そういった存在とは、もはやまったく異質のものなのです。
ある時代においては神と呼ばれていておかしくないようなものです、
自然崇拝の中に存在する絶対的な捕食者であり、大いなる恐怖の部分、人間の原記憶と呼ばれるものの中に組み込まれていて、多くの創世神話や太古の伝承、あるいは人類が未発達の猿人だった時代に壁画に刻み込まれた平伏すべき巨大な影、それがファーストです。」
「はい・・・でも・・・浦島さんは以前、その男と、」
「もちろん、会いました。私がかつてセカンド候補として、その男から呼ばれたからです。しかし会ったという表現が正しいかどうかはいささか疑問がありますが・・・この目に映すことくらいは叶いました。」
「大きいんですか、いや体が巨大なのかと・・・いやその、こんな時におかしな質問かもしれないけれど・・・」
「よくわかりませんでした、私には黒い影の塊のようにしか見えなかった・・・
既知の何かのようなシルエットですらなかったように記憶しています。あれほど恐ろしいと思ったことなどありません、いや、恐ろしいかどうかもよくわかりませんでしたが、そういう次元の恐怖ではなかった。私が恐怖を感じる云々ではなく、あの存在自体が絶対的な恐怖であって、我々人間が感じる恐怖の核となっているものが目の前にあったのです・・・正直・・・あんなものと、まともな精神で対峙できるものかどうか、今の今でも、そう思っています。」
浦島さんのその顔には精神のゆらぎなど微塵も感じられなかったが、いつもは掌など握りしめて話などしない彼が、地面を叩き壊さんばかりの拳を床に向けていた。
「浦島さん・・・ぼくは、ぼくはとっくの昔に無理だと思っていますよ・・・
ほんとうはいまでも無理なんじゃないかと、いや無理だろうなあと、ずいぶんな割合で思っています・・・これは現実なわけだし・・・けれど・・・もうそんなことを話している段階は終わったんですよね?じゃあ、仕方がないとしか・・・いやもう決めちゃったし・・・ここまで来てしまったし・・・ははははは・・・」
ぼくは意味もなく声を出して笑ったが、声は自分が思っている以上にかすれていて、すぐに消え去ってしまった。
「はっはっはっはっはっ、もちろんです。」
ぼくの顔をちらりと横目で覗いてから、浦島さんが大きな声を出して豪快に笑った。
「あの時とはずいぶん状況が違いますから、無論心配無用でしょうなあ、はっはっはっはっ、私もずいぶんと耄碌したものです、この期に及んで泣き言などと。大変失礼しました白酒さん、そして本当にありがとう、この仕事を終えることが出来たなら、いやもちろんこの仕事を終えて、あなたと旨い蕎麦でもご一緒するのが、いまからなんとも楽しみで仕方ありませんなあ。」
浦島さんは握りしめた左の拳をゆっくりと解いて、ぼくの方に差し出した。
「それまでは必ず生きてください、これは約束の握手です。」
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月白貉