ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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九つの暗闇

朝起きると体中の節々にひどい痛みがあった。

 

顔を歪めながらゆっくりと起き上がって、玄関脇のユニットバスの鏡に顔を突き合わせると目が真っ赤に充血していた。

 

ここ数ヶ月、朝起きると目が充血していることを気にかけてはいたが、きょうの充血の具合は尋常であるとはあまり言いがたかった。ぼくが好んで鑑賞するヴァンパイア映画のそれにも見劣りがしないほど、白目の部分は血のような深紅に染まり、逆に黒目の部分がぼんやりと白くぼやけているように見えた。そんな目の状態で鏡を見ている自分が、まともに世界が見えているのかどうかさえ不安になるくらいだった。

 

その日は早番で仕事が入っている日だった。

 

ちょうど一週間前からはじめた温泉宿の清掃のアルバイトだ。規模の小さな山間のひなびた温泉宿で、お世辞にも繁盛しているとは言いがたい宿だったが、歴史は古く、ある程度の格式もあり、かつては名のある文筆家も多数、逗留の宿として足しげく利用していたとの話を聞いた。ただそれは現在の宿になる前の経営者の時代の話らしく、新しくなった宿の経営がはじまったのはつい一年前だとのことだった。

 

この宿で働き始める前までの16年間、東京でいくつもの仕事を転々としていたぼくは、3.11の大震災とそれに伴う福島の原子力発電所の事故をきっかけとして東京を離れることを決意する。

 

そしてある友人の紹介で、島根県の山間部にあるその宿の仕事を始めることになった。いまぼくが生活しているのはその宿が借り上げて社宅用に使っている古いアパートだった。

 

ぼくの世話をしてくれているのは宿の番頭さんで、おそらく60代くらいの温和そうな白髪の老紳士。

 

番頭というよりは、どちらかというと執事とう肩書きの方が似合うような趣をもつ人物だった。その宿で働く女中さんのほとんどがパートタイムで入れ替わりが激しいため、ぼくの業務の指導は番頭さん自らが担当してくれている。基本的に誰に対しても公平だし、とても信頼のおける人物だが、こと規律や礼儀作法については職人気質でずいぶん厳しいところがあると、女中頭をつとめる紀子さんから聞かされた。

 

宿の女将については、採用面談の際に挨拶程度に言葉を交わしたほどで、どんな人物なのかはよくわからないし、この一週間不思議なことに一度も姿を見かけなかった。

 

休憩場所で何人かの女中さんたちに混じって雑談の場には加わらせてもらったが、番頭さんについての話は出てくるものの、女将についてはいい噂も悪い噂も、そして悪口もまったく耳に入ってはこなかった。ただ仕事初日、一通りの業務を終えて番頭さんと紀子さんに声をかけてから、帰宅するために裏口から出かかったぼくを、番頭さんが少し慌て気味に呼び止めた。

 

「白酒くん、まあたいしたことじゃあないんですがね、ひとつだけきみに話し忘れていたことがありました、いまふとそのことを思い出したので、立ち話で申しわけありませんが手短に話させてください。」

 

いまさっきまではとても穏やかな表情だった番頭さんの顔に、ほんの少しだがおかしなかたちをした影が見え隠れしているような気がした。

 

「面談の際には女将から直接お話はなかったと思うんですが、この宿で働くにあたってちょっとだけ特別な規則がありましてね。

 

働き始めてから9日間は、うちの宿独自に、というか正確には女将の意向なんですが特別試用期間というものを設けていましてね、休暇を挟まずに連続しての勤務をお願いしているんですよ、欠勤せず9日間は必ず業務に入っていただきたいんです。ちなみに遅刻や早退もせず決められた時間内は必ずこの宿の敷地内にいて業務に従事してくださいという意味です。」

 

ぼくがちょっとだけ質問をしようとしてすこし唇を動かしだすと、番頭さんはあっとう顔をして、右掌を軽くぼくの方に向け、何かを静止するようにして付け加えた。

 

「回りくどい言い方で申し訳ありません、最初の9日間だけはこちらの都合でお休みなく勤務してもらいますよということです、ほんとうにごめんなさいね、こちらの勝手な都合なんですよ、人手が少ない中、いろいろ覚えてもらうことが多いものでして、ただそれだけのことです。もちろんそのあとに、日数分の決められた休暇は自由に取っていただいてかまいませんし、それ以降はそういったことはもうありませんから。」

 

きょう一日、番頭さんはぼくに付きっきりで業務の指導をしてくれていたが、終始落ち着いていて物腰の柔らかい話し方だった。まだ仕事に慣れないぼくが二度も三度も同じ質問をしてしまう場面も幾度かあったが、ぼくの言葉を遮ることもなく最後まで聞き終わってから、何度でも丁寧に説明を繰り返してくれていた。けれどさっきぼくに声をかけて話し始めてからの彼の話し方には何かの焦りというか怯えというか、すぐ背後から何かぼくには見えないものに、凄まじい勢いで駆立てられているのを必死で隠しているような震えのようなものが感じられた。そしてその震えを通じて、彼の後ろに隠れている何かの黒い固まりのようなものがぼくにまでのしかかってくるような恐怖を感じた。人と話をしていてそういう種類の恐怖を感じたことはいままでに経験がなかった。だからそれがいったい恐怖なのか何なのかさえ、その時はおそらくよくわかっていなかったと思う。でも、そこで立ち止まって彼と話し続けていると、その黒い固まりが彼を押しつぶして実際に目の前に現れるんじゃないかという気がしてきた。その不気味な威圧感に堪えかねて、ぼくはとても重要な質問をするのを忘れて、相づちを打つことしか出来なかった。そして、わかりました、大丈夫だと思います、おつかれさまでした、とだけ言って、番頭さんの返事もまたずに急いで裏口をでた。

 

「おつかれさまでした、じゃあまた明日、よろしくおねがいしますね。」

 

番頭さんの声を背中に受けながら裏口を出たとたんに、先ほどまでの威圧感が嘘のように消え去ったので、ほっとして宿の方を向きなおり、番頭さんに改めて挨拶をしようとしたが、すでに番頭さんの姿はかき消されたようになくなっていた。

 

 

 

 

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暗闇の声 (ふしぎ文学館)

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