ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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水前寺清子と一緒に歩けば、闇なんて怖くないワンツーパンチ日記。

これから、クラーケンを討伐にゆく。

 

 

ねむ〜い、ねむいけど、あとしばし。涙がこぼれるまで。

 

駅で誰かが見送ってくれるのって、なんだかちょっと恥ずかしいんだけれど、すっごくうれしいんだよなあ。

 

だから最近は、その見送りを恥ずかしがるのをやめてみた。すぐに会える人にも、もう二度と会えない人にも、その真ん中の人にも、見送りはガッツリ受け止めよう。

 

 

ジャンクなお菓子の類は、滅多に食さないが、駄菓子って、なんだが魅力的。駄なところって、やっぱ魅力的。駄蕎麦とか。私のゴーストがそう囁くのよ。

 

 

雨にけぶる海を見ながら、なんだか少し悲しくなる。

 

ぼくの記憶は、ほんとうにぼくの記憶なんだろうか。

 

 

誰かにやさしく出来ているのかと、少し悩む。

 

誰にでもではなく、誰かに。

 

少し前に比べたら、誰かにやさしく出来ているんじゃないのかと思うが、果たしてどうだろうか。ぼくは誰にでもはやさしくない、だいぶ厳しい。それは昔と変わらない。でも、誰かにはやさしくありたい。

 

 

iPhoneで撮る写真が、なんだかぜんぶボケボケだな、なんか憑いてるんだろうか。

 

 

ふいに水前寺清子の『三百六十五歩のマーチ』が頭をよぎり、洗い物をしながらやや大きめの声で歌ってみる。大きめの声になったのは、おそらくほろ酔いだからである。

 

二番が思い出せなくて一番をループする。調べるのもしゃくなので一番をずっと。

 

歌詞は調べないが、水前寺清子Wikipediaで調べると、「見得を切りながらの歌唱は、ん〜にゃっ!という語尾ひねりによって物まねされることが多いが、本人の癖はそれほど強くない。」と書かれている。たしかに。

 

歌詞をしみじみ味わってみると、意外とぼく向けの歌である。

 

ワンツーパンチ!

 

 

ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン!今後フルネームで言おうっと。

 

 

きょうはとても長い一日だった。

 

午前中は充実していたが、午後から夕方にかけて、だいぶ疲労を抱えてしまった。そして夕暮れ、木の上にまた天狗を見かけた。久しぶりだった。写真を撮ったけれど、シャッターに気付いて、飛び立ったか姿を消したかで、写っていなかった。あるいはそもそも写らないのか。

 

 

梶井基次郎の『闇の絵巻』という文章がある。

 

水前寺清子と一緒に歩けば、闇なんて怖くないワンツーパンチ日記。

 

ずいぶん前に一度だけ読んで、その情景が頭の中にいつまでも残っていた。

 

数年前、父と一緒に熊本の寂れた温泉宿に泊まったことがあった。父親とふたりだけで旅に出たのはそれが初めてだった。

 

宿の外の山道を挟んだ向かいの滝の下に露天風呂があるとのことで、夕暮れを過ぎた頃、小雨が降る中ひとりで傘をさして暗闇の中を歩いた。父に行くかと聞くと、「お父さんはいいよ。」といって来なかった。

 

暗闇の中には、山道に灯された小さな電球の街灯がひとつだけ。その周囲以外は闇なのだ。そのとき思い出した。梶井基次郎の書いていたことだ。そして、久しぶりに冒頭の一節だけ読み返してみた。出だしの文章が好きだ。

 

おやすみなさい。

 

 

 


月白貉