ペナルティ
「欠勤せず9日間は必ず業務に入っていただきたいんです。」
仕事をはじめてまだぼくは6日間しか宿の業務には入っていない。
約束の日数まではまだ3日足りていないということになる。ぼくが特別試用期間の規則をやぶって9日間の勤務を完了せずに、仕事に遅刻したり欠勤するということになれば、その理由が何にせよ、おそらく何かしらのペナルティがあるのだろう。番頭さんはそういうことが言いたかったに違いない。しかしぼくはあの時、いちばん大切な部分であるそのペナルティのことを確認するのを忘れていた。けれどいまは、体の痛みのこと、そして目の異常な充血のことを考えると、さすがに病院にいくという選択肢以外には考えられず、寝間着の上にダウンジャケットを羽織るような出で立ちで家を出て、最寄りのバス停へと小走りに向かった。
携帯電話で宿に電話をかけてみるが、いっこうに誰かが出る気配はない。
バス停にたどり着くまでに何度か同じことを繰り返してはみたが、やはり状況は同じだった。いまの時刻は、7時40分。ぼくの出勤時間は8時と決められていた。
ぼくの住む地域のバスの本数は少ない。
多い時間帯でも一時間に一本、利用者の少ない時間帯になると三時間に一本くらいしかバスは運行されていない。ぼくがバス停に向かった時間帯は残念ながら隙間の時間帯。バスの時刻表を見ると、次のバスまでは一時間半ほど待たなければならない。
いちばん近い病院、しかも町医者のようなものではなくある程度の規模を持つようなものまでは、歩くと一時間はかかる。
ただこのバス停で、真っ赤な目をした寝間着姿同然の男が立ちすくんでる光景は、道路を走る車の運転手から眺めるとずいぶん異様な光景だろう。バスの本数は少ないが、そのバスが通る道路は唯一町につながる県道で、車通りに関しては地方都市部の町中とさほど変わりはないのだ。もし、たいして想像力が豊かではないぼくが車を運転していて、早朝のバス停にたたずむ目の異常に充血して寝間着に薄汚れたダウンジャケット姿の男を目撃したとしたら、警察に通報することはないにしても何かしら異様な雰囲気を感じずにはいられないだろう。
それこそきのう真夜中にやっていた昔のヴァンパイア映画に紐づけてしまうかもしれない。
そう考えている短い間にも、ぼくの姿を奇異の目で見つめる運転手たちが次々と目の前を通り過ぎてゆく。ぼくの目の前を通り過ぎる一瞬だけ、その運転手たちの表情がスローモーションのようにぼくの目に映る。ある人は顔を引きつらせている。ある人は口を開けて目を大きく見開いている。あるひとは目を合わせぬように見て見ぬ振りをする。そんな人々を乗せた車が南へ北へ、左へ右へ次々と通り過ぎてゆく。
いつまでもここで突っ立ってバスを待っているには、なんだか様々な、そして多くのリスクを背負うような錯覚に陥る。もし万が一だ、この前日に近隣で殺人事件が起きていたとしよう。その捜査の際に、警察が周辺への事情聴取を行ったとする。
「このあたりで怪しい人物を見かけませんでしたか?」と。
警察の事情聴取なんて受けた経験など一度もないが、もしそのような聞き込み調査が行われたとしたら、ぼくの姿を目撃した人々がぼくのことを口に出す可能性が大いにあるんじゃないのか。もちろんぼくは殺人など犯していないし、それに関与もしていない。朝起きると具合が悪いのであわてて家を飛び出してきて、病院に向かうバスを待っているだけだ。しかし、真実なんてものは誰かの創作や悪意によって簡単にねじ曲げられてしまう。そしてそうやって一度ねじ曲げられてしまうと、自分ひとりの力で元に戻すのは不可能に近いのだ。
ぼくは次に来る予定のバスを待たずに病院の方角に向けて歩き出すことにする。
都合のよいことにこの県道の脇には山間に続く旧道が残っている。その旧道を歩いていけば、目指す病院の裏手まではほとんど人目につくことがなく進むことが出来る。ただ旧道とは言っても、もう何十年も使われていない道で、その長い年月の間に草や木々に覆われ道無き道になっている部分もあるだろう。新道のトンネルになっている部分を山を越えて迂回する場所もあるかもしれない。国道沿いを普通に歩けば病院までは50分ほど。しかし旧道の山道を使うと、どのくらい時間がかかってしまうかは全くの未知数だ。なぜなら道の存在は知っているが、一度も完結してその道を歩いたことはないからだ。
月白貉