ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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みどりいろの記憶

ぼくは、生まれた時から最近までの記憶がまったくなかった。

 

覚えているのはちょうど一年前までの思い出だけ。中野区にある小さなワンルームのアパートで、紫色のセーターを着た女の子と一緒に寄り添って、古いSF映画を観ていた。その前のことは何も、なにひとつ覚えていない。 その映画は、荒廃後の地球を描いていた。人間以外の生物は、ほとんど死滅してしまった世界。動物も植物も、海や川の魚たちも、空を飛ぶ鳥たちも、地をはう小さな虫たちも、何もいなくなってしまった世界。残ってるのは、どん欲に生きる人間たちだけだった。その結果として、人間たちに襲いかかってきたのは、食料危機という現実だった。他の生き物を省みない自分たちの行動が、結果として当然のごとく、自分たちの命をすり減らしてゆくこととなったのだ。

 

映画を観ながら、ぼくの横の女の子は静かな寝息を立てながら眠っていた。時々小さく口を開いて、何か呪文のようなことをぶつぶつとつぶやく彼女の声に気を取られいるうちに、そのSF映画はエンディングをむかえ、真っ黒な画面に英語のエンドロールが流れている。

 

「この映画はね、私の父がいつもいつも口にする映画なのよ、父と母がはじめてデートをした日に、銀座の小さな映画館に、父が母を誘って観に行ったの、だからきっと父にとっては、とても大切な何かがつまってる映画なんでしょうね。」

 

ぐっすり眠り込んでいるように見える彼女の体を支えながら、テレビのリモコンに一生懸命手を伸ばすぼくに、彼女は唐突にそう言って、ぼくのほっぺたにちゅっとキスをした。いままでぐっすりと眠っていたようには思えない目の覚めるようなはっきりとしたキスだった。

 

「起こしちゃったよね、ごめん。テレビを消さなきゃと思って。映画おもしろかったよ、ぼくは眠らないでちゃんと最後まで観られたよ。いくぶん古めかしいサイエンス・フィクションではあるけれど、ぼくはこういう映画は好きだよ。」

 

ぼくがそう言い終わる前に、彼女は今度はぼくの口の端っこにキスをした。そしてぼくの背中に手を回し、ぼくの体に顔をうずめてぎゅっと抱きしめ、くすくすと笑い出した。ぼくが何がおかしいのかを聞くと、彼女はそのことについては何もこたえず、さっきの映画の話を続けた。

 

「あの映画の最後のほうにね、きれいな自然の景色が大きなスクリーンに映し出されるシーンがあるでしょ、荒廃してしまう前の地球の海だったり、山だったり、森だったり。それから動物とか植物とか虫とか。父はね、あのシーンがすごく好きなんだって。でもね、映画を観ていたらわかるけど、あそこはすごく悲しいシーンなのよ、観たからわかるでしょ?」

 

みどりいろの記憶

 

「でも、父の記憶からは、たぶんその悲しい要素は消えてなくなっちゃってるのよ、あたし顔を合わせるたびに言ってたのよ、父に。あのシーンが好きだっていつも言うけど、あそこはすごく悲しいシーンよって。でも、何度それを言ってもちっとも覚えてないの。そっかぁ、わすれちゃったなあ、でもお父さんはあのきれいなシーンで、クラシックが流れてるところが好きでさあって、お母さんをはじめてデートに誘って観に行ったんだよってそれしか言わないの、いっつもお~んなじ話。」

 

「あたし思うの、記憶ってね、自分の中のいろんな思いがぐちゃぐちゃになって出来るものなの。それが本当に起こったかどうかとか、事実かどうかなんてことは、まったく関係ないのよ。だからね、もしかしたらこの映画だって、父は本当は観てすらいないかもしれないもの。」

 

もし本当に彼女の言うように、記憶というものがまったくのフィクションだったり、あるいは自分の強い願望だけで構成されているものだとしたら、ぼくが覚えているこの一年の記憶ですら、実際のぼくの行動や、ぼくのことを知るための手がかりとしては、まったく意味をなさないことになる。

 

「少し前にきみにも話したけど、うちはもう両親とも死んで、いなくなってしまったの。先に死んじゃったのは母。すごく気が強くて、自分の信じたことを何よりも重んじる人だった、たぶん誰よりも真面目だったのね。道ばたでヤクザにからまれている人を、啖呵をきって助けるような人だったの。きみがもしあたしの母とあっていたら、たぶんスーパーヒーローみたいな人だねって言ったと思うわよ。いっつも動き回って何かしてないと気が済まないの。だから、ほらなんだっけ、宮沢賢治の詩にあったでしょ。雨にも負けず、風にも負けず、そのあとなんだっけ、きみが少し前に、街を歩きながら言っていたあの詩があるでしょ?」

 

「雪にも夏の暑さにも負けぬ、丈夫なからだをもち、慾はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている、一日に玄米四合と、味噌と少しの野菜を食べ、あらゆることを、自分を勘定に入れずに、よく見聞きし分かり そして忘れず、野原の松の林の陰の、小さな萱ぶきの小屋にいて、」

 

彼女は、そうそうそれよと、なんだか子供が子守唄をリクエストするみたいに無邪気にはしゃいで言うと、またぼくの体をぎゅっと抱きしめて今度はぼくの耳にキスをした。そして唇をぼくの耳にくっつけたまま、あたしその詩が好き、それときみがその詩を言う時の声が好き、と言った。

 

「思い出した、そのあとはあたしに言わせて、えっとね、東に病気の子供あれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいといい、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろといい、あってるでしょ?」

 

「うん、あっているよ、日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなにでくのぼーと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず、そういうものに、わたしは、なりたい。今日の朗読会はいかがでしたか、おじょうさん、お気に召していただけましたか?」

 

「母のことを話してたら、その詩を思い出したの、きみから何度か聞いたその詩を。途中からちょっと違うけどね、あたしの母とは。元気すぎて、あんなにあっさり死んじゃうとはおもわなかったなあ。でも60歳を過ぎたある日、大腸だか小腸だかに悪性の腫瘍が見つかったの。

 

実家を離れて東京で暮らしているあたしは、そのことを父から電話できいたのよね、お母さんにガンが見つかったんだよって、まあ、ああいう人だから心配はないと思うけど、いちおうお前には連絡しておかなくちゃとおもってね、大丈夫心配ないよ、ただ時間があったら帰ってこられるかな?って。

 

父の声、震えてたの、あたしには心配させないようにって、すっごい気をはって連絡してきたんだと思う。でもその声の震えは、電話越しにすごく伝わってきた、あたしの目の前の景色が、ぶるぶる細かく震えてるんじゃないかとおもうくらいだったわ、そういうのわかる?嘘の震えじゃないの。

 

結局、あたしはその時期すごく仕事が忙しくて、あとたぶん大丈夫だろうと思っていたのね、あの母のことだから。いつものようになんでもかんでも、どんな難題でも、どんな悪者の姑息な罠だって、さらっと解決しちゃうんだろうなって。だってほんとスーパーヒーローみたいなんだもの。その2ヶ月後、母はあっさり死んでしまったの。その知らせは、もう父からじゃなくて、妹からの電話だったわ。お母さんが死んじゃったよって。人間は死んでしまうの、どんなにスーパーヒーローみたいだって、どんなに不死身の怪物みたいだって、みんないつかは同じように死んでしまうのよ。」

 

窓の外の空はもう暮れかけていて、ちょうどきれいな濃いピンク色に染まっていた。彼女とぼくはそのまましばらく、消してしまったテレビの液晶画面を見つめながら、二人でくっつき合っていた。薄曇った黒い液晶画面には、ぼんやりとした二人の姿と、その後ろの真っ白い壁が映し出されていた。

 

彼女は紫色が好きで、いつもいつも紫色の服を着ているなあというのがぼくの印象だった。彼女はみどりという名前だったが、緑色の服を着ているところを、ぼくは今まででいちども見たことがない。それどころか、彼女は自分の緑という名前をあまり気に入っていないらしく、もっとエキサイティングな名前を付けてほしかったのにと、話題が名前のことに触れられる度に、口癖のように言っていた。ぼくは正直、みどりという名前はそれほど悪い名前だとは思わなかったし、どちらかと言えばシンプルで可愛い名前だと思っていた。

 

「だってみどりなんて名前でよ、緑色の服なんか着てたら、もうすっごく緑色が大好きみたいじゃない、そんなのあたしいやよ。だからぜったい緑色の服は着ないし、緑色のパンティーだってブラジャーだって付けないの。だから一緒にいる時は、あまり名前の話題には触れないでね。」

 

だからぼくは、彼女のことをむらさきみどりと呼ぶことにした。最初はむらさきと呼ぼうかと提案したのだけれど、むらさきという名前は何となく古風にすぎるし、ましてやむらさきという名前でむらさきの服を着ていたら、なんだか元も子もなくなってしまうじゃない、ということになったのだ。 けれど、結局のところ彼女との会話の中で、あるいは彼女と時間を過ごす中で、名前を呼ぶ機会はほとんどなかった。ある時はきみと呼んでいたし、あるときはねえとか、あのさあとか呼んでいた。なぜならぼくたちは、いつもずっと二人だけでいたからだ。 例えば、レインボーブリッジの歩行者用道路を二人で歩いている時に、突然の大地震が東京を襲い、レインボーブリッジがちょうどぼくと彼女の足下を引き裂くように割れて崩れ落ち、彼女が東京湾に投げ出されでもしない限り、その時のぼくには彼女の名前を呼ぶ理由などなかったのかもしれない。そしてもし、そんな大災害にみまわれた東京で、彼女を求めて名前を大声で叫ぶとしたのなら、たぶんむらさきみどりなんて呼ばずに、ただみどりと呼ぶに違いない。その時はきっと、ぼくがその名前に触れたことについても、彼女は怒ったり文句を言ったりしないと思うし、そう願っている。

 

みどりが姿を消したと電話をくれたのは、みどりの妹のかなちゃんだった。その日、みどりは仕事を終えたあと、午後七時三十分に渋谷でかなちゃんと待ち合わせをしていたらしい。みどりとかなちゃんは両親が亡くなってしまったあと、練馬区にあるマンションで二人暮らしをしていた。

 

「むらさきみどりがいなくなったの、きょうあたしね、おねえちゃんと渋谷のハチ公口の交番の前で七時半に待ち合わせてたんだけど、一時間経ってもぜんぜん現れなくて、何度も携帯には電話してみたんだけど繋がらなくてね、もしかしたらクロと一緒にいるのかなと思って電話したんだけど。」

 

みどりが待ち合わせの時間に遅れてくることはよくあった。けれど遅れるといってもせいぜい10分か15分程度のことが多く、遅れるときには必ず携帯にメールが送られてきた。そのメールには文字は書かれておらず、涙を流した顔の絵文字がひとつだけぽつんと綴られていた。 その遅刻メールのルールはぼくに限ったことではなく、かなちゃんにも適用されていた。涙を流した顔が送られてくると、ごめんね、ちょっと遅刻しちゃうけどゆるしてね、という彼女のサインなのだ。でも今回はいまだにそのメールはなく、ただただ渋谷の雑踏の中で、時間だけが過ぎ去っていると、かなちゃんは、ちょっと泣きそうな声を出してぼくに訴えていた。

 

「そういうところは絶対に守る人なの、あたししってるの、だって姉妹だもん。クロのところにいて、楽しくて、あたしとの約束忘れちゃったのかとも思ったけど、そんなわけもないし、でも一応電話してみようかなと思ってさ、一緒じゃないてことは、おねえちゃんひとりでいるってことだよね、あの人ほとんど友だちなんて呼べる人いないし、仕事は定時であがってるはずだし、なにかあったのかな?事故とかじゃないよね?ネットでニュースみたり、さっき駅員にも聞いてみたんだけど、電車が遅れてるってことはないみたいだし、あと何かな。むらさきみどり、待ち合わせに現れない理由、なにかな?」

 

かなちゃんはずいぶん慌てているようだった。とりあえずぼくは、電話越しに、たぶん何も心配するようなことはないよ、たぶんちょっとしたことだよ、大丈夫、だから落ち着いて、今からそこへ行くからと伝え、電話を切り身支度を整えながらみどりの携帯電話の番号を発信してみた。

 

六回ほど呼び出しのコールがぼくの耳に響き渡り、そしてその後留守番電話に接続する旨の、高性能な女性ロボットのような声が流れた。

 

「留守番電話に繋ぎます。発信音のあとに20秒以内でメッセージをどうぞ。」

 

ぼくは留守番電話にメッセージは残さず、片手で不器用にズボンをはきながらもう一度同じ番号に電話をかけてみた。しかし今度は留守番電話には繋がらず、すぐにまたあの高性能な女性ロボットが話し始めた。

 

「おかけになった電話は電波のとどこないところにおられるか、電源が入ってないためかかりません。恐れ入りますが、しばらくたってからもう一度おかけなおしください。」

 

女性ロボットはそう言い放つと、一方的に電話を切ってしまった。 まったく、流暢に恐れ入っている場合じゃないだよと、投げ捨てるようにつぶやいてぼくは急いで部屋を出て渋谷に向かった。ぼくの住む中野区の野方からは電車を乗り継いで渋谷までだいたい30分程で到着するはずだ。その間に何度かみどりに電話をかけることが出来るかもしれない。

 

 

 

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月白貉