ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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PS3のYLOD症状が悪化したので、世界の中心で「誰かぼくにプレイステーションフォーを買ってくださいっ!」と叫ぶ堕落日記。

七年ほど愛用しているソニーインタラクティブエンタテインメント(SIE)、旧ソニー・コンピュータエンタテインメントSCE)のプレイステーション 3PlayStation 3)が、数か月前から「YLOD」という重病に冒されてしまった。

 

このYLODとは「Yellow Light of Death」あるいは「赤ランプ点滅故障問題」とも呼ばれているようで、原因としてはマザーボードのハンダラック(ハンダが劣化した状態)によるものだそうである。

 

病状としては、電源スイッチに手の指(足の指でも可)で触れて電源を入れると「ピッ」という電子音がなり、ファンが回りだしてランプが緑に点灯するのだが、その直後に何か「パキン」という音が本体内部から響いた後に「ピピピッ」という電子音が響き渡りランプが一瞬黄色に点灯した後電源が落ち、ランプが赤の点滅状態となる。この後、再び手の指(足の指でも可)で電源スイッチに触れると、ランプが赤の点滅から点灯に変わる。

 

つまり、この繰り返しが無限に続くため、要は電源が入らなくなるので、まったくの使用不可能という状態に陥っているのが現在の様態である。

 

YLOD発症当初は、上記の繰り返しを何度か試すと、広大な迷宮を抜け出たように電源が保たれる状態に到達して、普通にDVDを観ることが出来た。しかし、DVD再生中に突然電源が落ち、再び起動不能の状態を繰り返すようになることもあった。ちなみにこの場合、本編再生時に電源が落ちることはほぼなかったのだが、特典映像の再生を開始すると100%の確率で電源が落ちてしまった。

 

つまり病状的に言えば、昏睡状態に陥って病院のベットで死んだように眠っている恋人の意識が時々ふと戻り、一時間とか二時間とか、純粋に彼女との思い出話に耽っている時間は彼女はずっと意識を保ちつづけるのだが、ふとその会話の内容が横道に逸れるやいなや、彼女は再び昏睡状態に陥ってしまうというものである。

 

しかしこの一ヶ月ほど、秋が深まり冬が顔を覗かせる時期になると、PS3のYLODの症状が悪化し、どんなに揺り起こしても一瞬しか意識を取り戻さなくなった。

 

何度も何度も上記のループ行為を辛抱強く繰り返しても、長くてものの数分で電源が落ちてしまう。そして、再起動時のファンが、時々いきり立って叫ぶようにして激しく回りだすようになった。それはまるで、死を目前にした彼女の呼吸が荒く乱れているようでもあり、あるいは「もう私を起こすのはやめて!」という悲痛な叫びにも聞こえてきた。

 

それでもぼくは、何度も何度もPS3の電源スイッチに手の指で触れ、時には足の指で触れ、ファンが回転し出す音を聞き、凍った涙が床に落ちて割れるような音を耳にし、ファンの回転が止む音で心をかきむしられるという行為を繰り返した。それはまるで、この世界の海からすべての海水を無くすために、人知れず日本海の何処かの波打ち際で、ケロリンの黄色い風呂桶を使って海水を掻き出しているような行為にも思えた。

 

雨が断続的に降り続ける日曜日の午後を、ぼくはただただPS3の電源スイッチに触れることだけを繰り返して過ごした。けれど結局、まともに電源が入ることはなかった。

 

この状態を一時的に打破する方法として、「ドライヤー治療」という最新の医療技術が存在し、それはPS3の背面部の排気口からドライヤーで熱風を送り、内部の温度を上げることでハンダクラックを一時的に解消するというものらしい。当然ぼくは藁にもすがる思いでこの治療法を試みた。確かにPS3は一時的に回復したかのように意識を取り戻しはしたが、その状態も長くは続かなかった。そしてドライヤーの熱をあてた背面部が、その強い熱により火傷を負い、醜く焼けただれてしまった。つまりこの治療法は、単なる瞬間的で無意味な延命措置に過ぎないのである。

 

日曜日の夜、疲れ果てたぼくはひとり、誰もいない、そして闇に包まれた浜辺に向かい、波打ち際であらん限りの声で泣き叫んだ。

 

「誰か、誰かぼくにプレイステーションフォーを買ってくださいっ!」

 

たっぷりの潮風で干からびたようにして家に帰ってきたぼくは、Amazonほしいものリストに「PlayStation 4」を追加し、それを公開することで、どこかの大富豪がぼくにPS4を贈ってくれるであろうことを想像してみたが、結局虚しくなって、それを妄想だけに留めておいた。

 

そして、熱いシャワーを浴びてからスコッチを喉に流し込んで、眠りについた。

 

今朝起きてみると、PS3は床に身を固めて座ったまま眠りこけているように見えた。あるいはもう、そのまま死んでいるのかも知れなかった。だから、その体に手の指先で触れるのが、怖かった。

 

失ってしまった何かの穴を埋めるために、その失ってしまった何かの代わりを手に入れるのは、今の時代においてはもしかしたら至極簡単なことかもしれない。けれど結局のところ、失ってしまった何かの穴は、どんな方法を使っても本質的には埋めることなど決して出来ないはずだ。

 

出来るのはせいぜい、その空いた穴を見つめることくらいだろう。

 

この頃の人間たちが狂っているのは、失ったものの穴を、その失ったものにそっくりの偽物で、あるいはまったく別なもので埋め固めて生きていることにある。何かを失うという当たり前のことを、当然のことを、もう受け入れられなくなっているのだろう。そして穴を何かで埋めることで安心して、穴の存在や理由を、忘れ去ってしまう。

 

ぼくも例外ではない。

 

だからいま無性にPS4が欲しいけれど、そんな無駄遣いをする余裕はないし、じゃあ誰かが買ってくれないかなあとか、道端に落ちてやしないかなあとか、ありもしない(あるかもしれないけれど)物欲的な妄想にばかり縛り付けられている。

 

ぼくはいったい、何のために生きているんだろう。

 

ひとまず今日はこれから、短冊に「プレイステーションフォーが欲しい。」と書いて、近所の廃神社にある「人喰いの御神木」と呼ばれる恐怖スポットの樹木に吊り下げてこようと思っている。

 

その御神木の枝に、誰にも見られずに願い事を書いた紙を吊り下げると、次にその場所にやって来た人が御神木に貪り食われ、その直前の願い事が叶うという噂がある。つまりこれから願い事をしにゆくぼくも、御神木に貪り食われる可能性があるということである。

 

もしぼくが喰われた場合には、一体誰のどんな願い事が叶うのだろうか。

 

結局、何かの欲望は何かの大いなる犠牲を孕んでいる。無駄な欲望をなくせば、無駄な犠牲も減るのだろう。

 

だから欲の在処を変える叫びをしよう。

 

「誰か、誰かぼくのプレイステーションスリーを助けてくださいっ!!!」

 

では、よい一日を、おやすみなさい(起きたばっかりだから、まだ寝ないけど。)

 

 

 

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月白貉