記憶の中の蝉
映画記事の冒頭部分で自分の昔の記憶を振り返ろうと思って、ぼくがはじめて東京でひとり暮らしをはじめた町をGoogleMapで眺め、ストリートビューで歩いてみた。
少しうらぶれたような路地裏にある日当たりの悪いワンルームのアパートで過ごした大学時代、毎日ひとりで一眼レフカメラとビデオカメラを持って撮影に出かけ、毎日ビデオレンタルで山のように借りてきた映画を観て、毎日あてもなく東京中の街を歩き回って、そして日が暮れると、毎晩のように訪れてくる誰かしらの友人たちと、毎晩のように酒を飲んでいた。
ストリートビューの中に浮かび上がるあの街角の風景は幾分か変わってしまったものの、おそらく本質的な空気感は、いまでもそのままなのではないのかと思う。けれど実際にその場所を歩いたわけではないので、あるいは圧倒的に変わってしまっているのかもしれない。
しばらくの間時間を忘れ、ストリートビューの中で擬似的に流れ行く景色を見ていたら、胸の奥で何かがザワザワとやけに大きな音を立てはじめ、濁った不安色を含んだ液体のようなものが喉元までせり上がってきて、なんだか怖くなってブラウザごと閉じてしまった。
あの日からはじまったぼくの東京での生活は、十八年ほど続いた。けれどぼくはある日、自らリセットボタンを押した。それまでに積もり積もった様々なものが、ぼくの右手を否応なく動かしたのかもしれない。
「もう二度と、東京では暮らさないだろう。」と、東京を離れる最後の日の日記に、そう書いてあった。
大学時代に好きな女の子はいたが彼女はまったく出来ず、友だちはたくさんいたがある意味では常に深い孤独に埋もれていて、自分が今ここにいることの意味さえもまったくわからなかった。あれから何度も引っ越しを重ね、様々な仕事を経験し、多くの人に出会い、何人かの女性と親密に心を交わした。うまくいっていたのか失敗ばかりだったのか、あっていたのか間違っていたのか、今となってはもうよくわからない。楽しいこともあったが辛いこともあった。そしてそのふたつは結局は同じことなのだ。それが過去というものなのだろう。
いま、窓の外に風はなく、陽の光もない。涼しいには涼しいが、時間の止まったような悲しげな夏の午前中がそこに佇んでいる。無機質な蝉の音だけが漂うように流れ、左のこめかみのあたりがズキズキと脈打つように痛む。
見知らぬ土地に来て暮らしだしてからもう何年もの時が流れた。いまここに、友だちと呼べる存在はひとりもいない。いま、ぼくがこの場所に留まっている理由は、ひとつの小さな光を支え、同時にそれに寄り添うため、それ以外に大きな理由はない。
おそらくぼくは、いまでも東京で暮らしていた頃と何も変わっていない。
あの日からずっと、いまでもさらに深い孤独の中にいて、自分のやるべきことさえも、いまだにまったくわからないでいる。
街を歩き、空を眺め、映画を観て、毎晩酒を飲んでいる。
窓の外で鳴く蝉の声がやおらひとベタになり、いまこの瞬間世界が無音になったように思えた。
窓の外に広がる灰色の空をぼんやり見ていたら、ここがどこなのかわからなくなった。
映画記事の冒頭部分で自分の昔の記憶を振り返ろうと思って、ぼくがはじめて東京でひとり暮らしをはじめた町をGoogleMapで眺め、ストリートビューで歩いてみたのは、いまから一時間前のことだ。その行為があっていたのか間違っていたのか、今となってはもうよくわからない。楽しくもあり、辛くもあった。そのふたつは結局は同じことなのだ。
それがもし過去というものなら、ぼくはいま過去の中にいるのかもしれない。
だから、蝉が鳴いていないのだろう。
月白貉