ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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夏ぞ、なもし日記。

連日暑い日が続いているが、家にいる時は窓を開け放つだけでもずいぶん涼しいので、エアコンや扇風機は可能な限り使わないことにしている。

 

そもそも家には扇風機はない。

 

団扇は大いに使う。団扇こそ我が家最強の冷房器具である。

 

ぼくが子供の頃は、まあ実家の古い暮らし方ということもあったのだが、冷房なんてものはないに等しかった。昼でも夜でも、夏は窓も戸も開け放っていて、おまけに網戸なんかなかったからありとあらゆる虫が飛び込んできて、特に暗くなって電気を付けていたりすると照明は虫地獄だった。食卓の照明の下にはハエ取り紙なんてものが吊り下がっていて、小さな羽虫やハエ程度なら対応できるが、夏の夜にはよく蝉が引っ掛かって大混乱におちいった。夜も蚊帳をつって寝ていた。深夜にはコウモリなんかも飛び込んできた。

 

いまでも地域によってはそういう暮らしがあたりまえな場所もあるだろうけれど、ああいう暮らしを、時々懐かしく思い出す。

 

あの頃とは暑さもずいぶん違うかもしれないが、それにしても昨今の様々な場所での冷房の多用具合は異常だと感じる。チェーン展開する大型のスーパーマーケットなんて、冷蔵庫か、なんだったら冷凍庫かと思うほど冷やされていて、店内に入ると具合が悪くなる。

 

あんなに冷やすなんて正気の沙汰ではない、バカじゃなかろうか、と真面目に思う。

 

多くの都市部などでは冷房の無駄な多用とアスファルトの熱で、周囲の暑さがどれだけ倍増しているか知れない。

 

アスファルトの道路なんかぶっ壊して、もっともっと森林を増やせば、どんなにか町が涼しくなるだろうにと思うのに。

 

そんなことも思いつつ、今夏はここ数日、とんでもなく寝苦しい夜が三日ほど続いたので、一時間の切りタイマーを設定して就寝前に冷房を使用したが、それだけでもなんだかぼくは罪悪感があった。

 

というわけで、今日は日中の暑さをしのげる場所を探してちょっと遠出をした、歩いてだけれど。目的地は、小さな滝である。近隣には残念ながら川遊びが出来るような清流がない。でも周囲には山があるので、どこかに滝くらいあるだろうと思って探していたら、やはり幾つかの滝が存在した。そのひとつを見に行ってきた。

 

とても小さな滝だったが、そこには冷房などでは作り上げることの出来ない本当の涼があり、流れ落ちる水が生み出した小さな清流に手を入れると、まるで楽園かと思うほどに心も体も涼やかな気分になった。

 

時々滝上から吹き下ろす風が、体の熱を優しく取り去ってくれた。

 

サワガニが水の中をバシャバシャし、蛙が流れの脇でケロケロし、青い色をしたトンボがザワザワと無数に飛び回っていた。

 

しばらくその滝を見つめながら我を忘れていると、背後から三人の親子が滝を見にやってきた。父親と娘二人、ひとりは幼稚園ほど、もうひとりはまだ言葉も話せぬような二歳かそこらの女の子。

 

滝からの小さな冷たい流れに足を浸して遊び出す長女、その横でその水の中にドスンと座り込んでしまう次女。

 

「ねえ、パパ、これだけ?」

 

「うん、小さな滝だからね、これだけなんだ、期待はずれだった?」

 

「ううん、別に大丈夫、楽しいよ、あたし山とか好きだから。」

 

そんな会話を交わす父親と長女の横で、水に浸かりっぱなしの次女が「イタイ、イタイ、」と言い出して父親に抱き上げられた。ずいぶん冷たい水だったので、冷たいのを通り越したのだろう。

 

「昔はここにくると、もっとたくさん子供たちが遊んでいたんだけどねえ・・・」と父親が誰に言うともなくつぶやいていた。

 

ぼくはしばらく、長女が特に楽しそうでもなく、短い流れの中を行ったり来たりしているのを眺めてから、その場を後にした。

 

滝まで歩いた距離は往復で16キロほどだろうか、きょうはずいぶん暑かったので、今帰ってきてシャワーを浴びて、ぐったりしながらこれを書いている。

 

騒がしい蝉に混じって、遠くから幻みたいなヒグラシの声が聞こえてくる。

 

さて、今こそビールでも飲むか。

 

これを読んだすべての方々へ、暑中お見舞い、申し上げ候。

 

夏ぞ、なもし日記。

 

 

 

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月白貉