ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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神社の裏山で起きた怪しげな事件と、人々に忘れ去られた神封じの玉の話。

二十八日の午前中、ぼくの住む〇〇市内の、現在は空き地となっている神社跡の裏の山中で男性の遺体が発見されたという事件が、インターネットのニュースサイトにトピックとして浮かび上がっているのが目に入ってきた。山に散歩に訪れた近所の老人から、「首のない男性の死体が地面に転がっている」と110番通報があり、地元の警察により遺体が発見されたとのことだった。

 

ぼくの頭の中では瞬間的に、その事件と数日前にぼくのウェブログにコメントを書き込んできた男性がリンクし、すぐに彼のウェブログにアクセスを試みてみたが、アカウントはすでに、おそらくは男性自身によって削除されていた。

 

サイトの記事には、捜査関係者の話によれば、遺体となって発見された男性の身元は近隣住民ではなく東京在住で、男性の首が鋭利な刃物のようなもので切断されてなくなっていること、また体にも同様の刃物で切りつけられたような傷が多数あることから、男性が何らかの事件に巻き込まれたものと見て捜査を開始したと書かれており、また近所の主婦の証言として、「あそこは昼間でも薄暗くて、ほとんどの人はあまり近付かない場所。数年前にも中学生数人が不審な人物に山中で追いかけられるということがあったから、恐ろしい。」と話しているようなことも書いてあった。

 

ぼくはその記事を読んだ後しばらく、ノートパソコンのキーボードに手をのせて固まったまま動くことが出来ず、光の加減で画面の端に映り込んだ色あせた自分の顔を見つめていた。そして次第に、心臓の下のあたりに何か大きな穴が空いたような息苦しさを感じ始めていた。

 

その事件の被害者と、ぼくのブログにコメントを書き込んできた男性が本当に同一人物なのかどうかは、その時点ではまったく知るすべはなかったし、あるいは今後もずっとわからないままかもしれない。ただもし同一人物だったとしたら、警察の捜査状況によっては、事件の数日前に彼がぼくとコンタクトをとっていたことも浮上してくるのかもしれない。けれど今の段階では多くのことが未知数にまみれているため、あまりいろいろなことがよく考えられなかった。

 

男性はぼくのウェブログに書かれたある文章へのコメントとして、いくつかの質問を書き込んできたのだが、その質問はぼくが書いているフィクションの物語の中に登場してくる語彙に関するものだった。彼はその語彙と同じ音を持つある石を全国各地で探しまわっているのだが、何分情報が少なくて困難を極めていると述べ、そんな折に、ぼくの文章の中に偶然自分の知るものとまったく同じ語彙を見つけたのでコメントを書き込ませてもらったのだと言っていた。そして、その語彙の出処について詳しいことを教えてもらえないだろうかということだった。

 

 

ゴラダマ、というのがその言葉だった。

 

それはぼくの書いた物語においては、ある種類の人間が持っている特殊能力の源というか、潜在能力というか、あるいはその能力自体を表すものとしてぼくが設定している言葉で、完全なる創作だと、男性には説明した。

 

神社の裏山で起きた怪しげな事件と、人々に忘れ去られた神封じの玉の話。

 

言葉自体のモデルとなっているのは、コラタミという語彙で、これは物語のネタ探しのために地元の図書館で閲覧していた古い地誌の中でたまたま見つけたものだった。内容も言葉遣いもずいぶんと難しい本だったことと、傷みが激しくて多くの部分が判読不可能なくらいに掠れていたこともあり、その語彙の具体的な意味合いに関してはよくわからなかったのだが、どうやらかつてのこの地の民俗儀礼に関連する言葉のようだった。

 

さらに、ゴラダマという言葉を構築するにあたっては、もうひとつモデルとしているものがあり、それは同じ図書館で定期的に行われている歴史講座に出席した際にたまたま隣りあわせた地元の地誌研究家の老人の話で、ぼくが書き連ねる物語の舞台にもなっている山を御神体とした神社とその御神体として祭られている山の話だった。

 

講座の始まる二十分ほど前に席についたぼくがふと目を向けた隣りに座る老人のノートに、精密な鉛筆画で神社へと続く長い石段のような絵が描かれていて、その石段がぼくが物語の舞台として考えていた廃神社の石段にとてもよく似ていたことが気にかかり、ちょっとした興味本位で声をかけた際に、老人が語ってくれた奇っ怪な話である。

 

「ああ、そうそうあそこですよ、ご存じですか。」

 

「はい、一度境内まで行ってみましたが、もう本殿も何もなくなっていますよね。」

 

「そうなんですよ、もうずいぶん前にねえ。いろいろあってねえ・・・、」

 

「いろいろ、とは・・・?」

 

老人は少し声をひそめた。

 

「あの、あの神社では毎年、一年に一度の秋の頃にねえ、オガミフウジという儀礼がありましてね、もちろん今はもうやらなくなってしまったんだけれど、ある年にその儀礼の最中に事故があって神職の人間が死んだんですよ・・・。まあもう随分前の話だけれど、それでまあ、いろいろあったらしくてねえ・・・、細かい内々のことまでは私は知りませんが、それで神社自体なくなってしまったんですよ。」

 

「はあ・・・、そうなんですか。ちなみにオガミフウジっていうのは、どんなものなんですか?」

 

「オガミとはねえ、男神と、こう書いて、つまり男の神様という意味だと言われていてねえ。つまりはねえ、あそこの神社は山を御神体としていましたから、その山が昔は男山と呼ばれていてずいぶんと荒ぶる神だったという話があるんです。だから年に一度、大勢で山の前に集まって、その荒ぶる男山神を鎮めるための男山神封じを執り行ったと、おそらくは神社が建つ以前からの話でしょうから、それが後に短くなって男神封じになったと、そういうわけです。」

 

「なるほど。」

 

「だけれどねえ、私はちょっと違うと思っていて、オガミっていうのは、拝み、とこう書いてね、拝み封じね、こちらじゃないのかと考えています。」

 

「拝むのを、封じるんですか・・・?」

 

「いやいや、この拝みっていうのはねえ、おそらくは拝み虫のことだと、つまりねえ、蟷螂です、カマキリのことだと。あの山にはねえ、昔から大きなカマキリが、つまり山の神だか主として大きなカマキリが住んでいるという言い伝えがありまして、もうずいぶんと廃れてしまった話で知っている人は少ないと思いますが。それでさっきの話と同じだけれど、やはりそれが荒ぶるモノで、山から降りてきては民を喰うわけですよ。つまりあの山はいわばカマキリの巣になっていると考えられていたんでしょう。でねえ、山にカマキリ退治に行った勇猛な武士の話なんかもあるんですが、山の頂上にね、カマキリが喰った人間の頭蓋骨だけで築かれた塚だか祠があるということが書かれていたりする。そのカマキリがねえ、人の頭だけカマで跳ね飛ばして集めるんだと。それでそのカマキリを、つまり拝み虫を封じるための儀式としての、拝み虫封じ、これが、やはり後に短くなって、拝み封じとなったのではないかと、私は考えています。カマキリはねえ、冬になって雪が積もるであろう、その上に卵を産むと、雪国なんかではそう言われていましてねえ、だから予知能力があるなんて言う人もいますし、学名の由来はギリシャ語で預言者という意味だと聞きますが、これを神として祀ったり畏れたりするという話は、ずいぶん珍しいはずですよ。しかし珍しいだけに、それ故に説としては弱いのですが。」

 

「へえ、なんだか不気味な話ですが、ずいぶん興味深い・・・。」

 

「そうですねえ、カマキリの神と言われれば、確かに不気味ですよ。ただね、私がそう考えることのひとつの大きな理由としてはねえ、オガミフウジの儀礼というのが、山の神を巫女に降ろしてそれを縄で封じるというものなんですが、この時に巫女が両手に鎌を持っているんですよ、鎌を振り回して荒々しい舞をするんです。それを神主が祝詞を唱えながら封じるというものなんです。さらにはねえ、その時に巫女がかぶる面があるんですが、それがどうにも奇妙でねえ、私は写真で見たんだけれども、あ、そうそう、その儀礼自体は一般には公開されていないものだったんですよ、だからその様子はすべて写真でしか見たことがないんだけれど、それも、写真が許されるようになったのも、まあ近年の民俗学的な見地からの学術的な調査とか資料収集とか、そういう目的があったからで、それまでは一切人の目に触れることはなかったんです。ああ、それでね、その巫女の面がねえ、人の顔ではないんだなあ、男神でもなければ動物でもない、何かねえ、目の大きな虫の顔のようなんですよ、あれですあれ、仮面ライダーのような感じといえばね、わかるかも知れませんよ。」

 

「なるほど、つまり巫女に降りてくる神っていうのは、まさにカマキリだというわけですね。」

 

「ええ、そういうわけです。儀礼は最後に、その縄で封じた巫女をカコイダマという竹で編んだ球形のかごに入れまして、穴に、カコイアナという穴に封じるというもので、終了するんですよ・・・、あっ、すみませんねえ、とんだ長話をしてしまって、年をとると話が長くなっていけませんよ・・・。」

 

そのコラタミとかカコイダマとかが、偶然同じ日に頭に詰め込まれたということもあって、その複数の要素を寄せ集めてギュッと握った一塊が、ぼくが創作したゴラダマというものであり、その語彙自体が例えば何かの古い文献に出ていたということではないことを、ぼくはその男性には、ずいぶん内容を省略してではあるが、伝えたという経緯があった。そして彼はぼくのその話で、ひとまずは納得してくれたようだった。

 

しかし、ぼくが男性に話したことには大きな嘘が含まれていて、真実は違っていた。

 

もちろん、図書館での文献と地誌研究家の老人の話は、実際にぼくが目にしたことであり、耳で聞いたことだった。それは紛れもない真実だし、男性に掻い摘んで伝えたことはすべて真実だった。しかし、ゴラダマという言葉の出処はぼくの創作などではなく、文献でも老人の話でもなく、ぼくがなぜその言葉を知るに至ったのかと言えば、それは、ぼくの書いた物語通り、恋人のナツミがあの悪夢のような出来事の後に口にした言葉だったからなのである。

 

つまりは男性の言うように、実際にゴラダマという言葉が古くから存在していて、彼の言うゴラダマと、ナツミの言っていたゴラダマは、おそらくは概念的な部分において同一のものを指す言葉だと思われた。そのことに何か漠然とした、しかし濃厚に漂う大きな闇のような強い不安を覚えたぼくは、その部分だけを無意識に似た感覚で包み隠してしまった。

 

そしてさらには、男性には創作だと伝えた、大いなるフィクションであると伝えたぼくの物語は、もちろんそんなものではなく、あれは実際に目の当たりにした、自分の耳で聞いた、そして肌で触れることのできた、悪夢に違いなかった。

 

その時、テーブルの上のぼくの手元に置かれたスマートフォンがポーンという高い音を立てて、メールの着信を知らせた。

 

そのメールは、ぼくのウェブログに再び、ラゴというハンドルネームを持つ人物から、コメントが書き込まれたという知らせだった。

 

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月白貉