ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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リアルとバーチャルの混沌、あるいは暗桃色に沈む怪物。

久しぶりに実家に帰省すると、いままでは一切そんなことはしなかった祖父が、玄関でぼくを出迎えてくれた。

 

「ああ、どうぞどうぞ、いらっしゃいませ。いま、家のものを呼びますから。」

 

異常なくらいに厳格で、まるで世界の悪とでも戦っているかのように壮大な正義感を持っていた祖父は、いつでもどんな時でも鋭く目を釣り上がらせて、身の周囲にまるで氷河のようなオーラを纏った人だった。そのため、ぼくが幼いころからずっと、家の中には、おそらくは他の家庭とは違った何かの緊張感のようなものが常に漂っていて、ほんの些細な事柄から始まる家庭内での揉め事も多かった。そして、その揉め事の中心軸はいつだって祖父であり、だから家族にはずいぶんと敬遠されていた。祖母に至っては、はっきり大嫌いだと明言していた。その嫌われ者のレッテルのようなものは、おそらくは、ぼくの家の中だけに限ったことではなく、あるいはそれはこの世界の中すべてでのことだと言えるようなものだったのかもしれない。

 

そんな祖父が、まるでどこかの寺院の中でひっそりと佇む仏像のような穏やかな笑顔を浮かべながら、どうぞどうぞと、さあどうぞと言って、ぼくを家の中に招き入れた。

 

日々の電話やメールでの父とのやり取りで、祖父に認知症の兆候が現れだしているということは聞いていた。ただ、普段一緒に生活をしている家族にとっては、それが兆候というレベルに思えるのかもしれないが、実家から遠く離れて暮らすぼくからしてみれば、それはもう兆候という段階はとうに乗り越えてしまった、その目の前にそびえ立つ青く霞んだ山脈のようなものに感じられた。

 

家の奥に誰かを呼びに行った祖父と入れ替わりに、真っ白い前掛けをした祖母が現れた。祖母はしばらく見ないうちに、ずいぶんと痩せ衰えているように見えた。

 

「あらあらっ、久しぶりだねえ、おかえりなさい。」

 

「ただいま。」

 

「ほんと遠くからねえ、どうもありがとう。いまお茶入れるからねえ、あがってあがって。」

 

玄関をあがり台所のテーブルについたぼくに、祖母が熱い緑茶と地元の銘菓だと言われている懐かしい饅頭を差し出してくれる。

 

「元気そうだから、安心したよ。時々にしか会えないからねえ。どのくらいかかったの?」

 

「夜行バスとかも使ってきたから、ずいぶんかかるよ。いろいろ合わせたら十二時間くらいは、かかったんじゃないかな、ここまで帰ってくるのに。」

 

「そうなの、それはずいぶん遠いんだねえ。それはどうもありがとうねえ。」

 

ぼくと祖母が会話を交わしているすぐ横で、祖父が台所の天井の隅に祀られた神棚を見つめながら、ボーッとして立ち尽くしている。ぼくがその姿に何気なく目をやると、祖母が小さなため息を付いた。

 

「もうねえ、ずいぶんと、少しずつねえ、いろんなことがわからなくなっていってるみたいなのよ。」

 

祖父はまるで、いま台所にいるのが自分ただ一人だけのようにして、ぼくと祖母がまるで見えていないかのようにして、そこに佇んでいる。

 

「ぼくのこと・・・、もうわからないみたいだったよ・・・。」

 

「そうみたいだねえ、さっきもね、お客さんが来ましたよって言ってたから・・・。一緒にすんでる私たちのことはねえ、まだちゃんとわかるんだよ。でもねえ、シンゴはずっと家にはいなかったから・・・。だけどさあ、ついこの間まで、シンゴが赤ん坊の頃からず〜っと、大きくなるまでずっと一緒だったのに、なんでそれでも忘れちゃうのかねえ・・・。シンゴのことがあんなに好きだったのにねえ・・・。」

 

祖父が神棚に向かって、なにかぶつぶつと独り言のような言葉を発している。

 

「どこかにひとりで出掛けちゃうとか、歩きまわったりしちゃうってことは、ないの?」

 

「そういうことは、まだないねえ。だってさあ、この間ね、病院へ一緒にいったらね、特にまだ問題ないですよって言われたんだよ。問題ないことなんかないよって、私は思ったけど・・・、でもさあ、病院の先生が、難しい計算問題を出すんだけどさあ、私なんか暗算じゃとってもできないような大きな数の計算をさあ、暗算でスラスラ解いちゃうんだよ、びっくりしちゃったよ。」

 

「へえ・・・、じゃあ、他の人から見たら、ふつうなんだろうね・・・。だってさっきも、ぼくはおかしいってわかるけど、たとえばぼくがおじいちゃんの家族や知り合いじゃなかったらさあ、特におかしいとは思わないかもしれないもんね・・・、言葉遣いだってちゃんとしてるし・・・。」

 

「そうかもしれないねえ・・・。」

 

祖母はテーブルの上の湯呑みを両手で拝むようにして包み込むと、もう一度ため息を付いた。

 

「みんなは今日は、いないの?」

 

「ああ、お父さんとお母さんとユキエはねえ、買い物に行ってるよ。もうすぐ帰ってくるんじゃないのかなあ。」

 

すると風呂場の方からピーッピーッピーッという洗濯機のアラーム音が聞こえてきた。祖母はそれを聞くと「ああ、おわったおわった。」と言って椅子から立ち上がり、ギュッ〜と音がしそうなくらいに伸びをした。

 

「ちょっと洗濯物干しちゃうから、ゆっくりしててね。」

 

祖母が台所から出ていってしまうと、ぼくはその空間に祖父と二人きりになった。祖父は相変わらず、先程からほとんど動かずにじっと神棚を見据えたまま、やはり何かぶつぶつと、ほとんど無音に近いような音量で独り言を言っているようだった。ぼくはその姿をしばらくぼんやりと見つめていたが、ふと思い立って祖父に話しかけてみることにした。祖父が本当にぼくのことを忘れてしまっているのかどうか、やはりそれが気がかりで仕方のなかったぼくは、実際に聞いて確かめてみるべきだと思った。

 

「ねえ、おじいちゃん。」

 

祖父がハッとした顔をして、こちらに顔を向けた。

 

「はい、なんですか?」

 

「ただいま。」

 

祖父はぼくの言葉に対して何も返事はしなかったが、先程玄関で見たのとまったく同じような穏やかな笑顔を浮かべた。

 

「どちらから、いらっしゃったんですか?」

 

「えっ・・・、あっ・・・ああ、えっと、九州です、宮崎県です。」

 

「ああ、そうでしたか、それはずいぶんと遠方ですねえ。」

 

すると祖父は一瞬だけ神棚の方に顔を向けて、「そうですよねえ。」と言ってから、またぼくの方を向きなおった。その光景は、まるでその時ぼく以外の他の誰かに何かを言われたかのようなものに見えた。

 

ぼくはその祖父の行動に何か奇妙な違和感を感じてしばらく黙ってしまい、ぼくと祖父は、それがどれくらいの時間だったかわからないが、そのまま黙って顔を向き合わせていた。するとまた、祖父が一瞬だけ神棚に顔を向けて、「ああ、そうですか。」と言った。

 

「おじいちゃん・・・、誰と話してるの?」

 

「・・・、ああ、ラーフさんですよ、ほら。」

 

祖父が神棚に手を差し伸べるようにして、何かぼくには見えないものを指し示した。

 

「ラーフさんって・・・?」

 

祖父はまた無言のまま、穏やかな笑みを浮かべて何度か頷いた。

 

「そこに何かいるの?」

 

「ええ、シンゴのことをね、孫のことを探してもらうように、お願いしてるんです。」

 

「えっ・・・。」

 

「私にはシンゴという孫がいましてねえ、けれどその孫が・・・、まだ幼い時分に、闇穴に捕まって飲み込まれてしまった・・・、行方知れずになってしまったんです。私があの時、あの山奥の滝で・・・、手を離してしまったばっかりに・・・、シンゴは・・・。だから私は、なんとかシンゴを助けなければと、日本全国、ほうぼうを歩き回って調べました。シンゴを助ける方法はないものかと、調べて回りました。そしてある深い山の中で、ラーフさんのことを聞きました。そして、ここに穴を開けて・・・、」

 

祖父の声は次第に小さくなってゆき、それでもまだ何かをずっと話しているようだったのだが、ぼくにはもうその内容を聞き取ることはできなかった。けれど、ひとつだけ確かなことがあった。

 

祖父は、ぼくのことを忘れてはいない。

 

祖父の言っていることのほとんどは、あまりよく理解はできなかった。けれど、祖父の頭の中には、ぼくの名前がちゃんと記憶されていて、それはぼくの存在とたしかに紐付けられているはずだった。そしてその名前を自在に口にだすことが出来るということは、祖父がその記憶をきちんと握りしめている証拠だと感じた。でもなぜ、今のぼくの姿を見ても、ぼくがシンゴだということがわからないのだろうか。

 

玄関の方から扉の開く音がして、ザワザワとした人の気配が近付いてきたかと思うと、「ただいま〜。」と言って妹のユキエが台所に入ってきた。するとユキエがぼくの顔を見た途端に、「うわあ〜っ!!!」という激しい叫び声をあげて、床に腰を付いて倒れ込んでしまう。

 

その光景を見ていたぼくは、何故か意識が遠のいてゆくのを感じた。その消えゆく薄らいだ意識の中で、ユキエが祖父に向かって何かを叫んでいる声が聞こえていた。

 

「おじいちゃんっ!おじいちゃんっ!!お兄ちゃんがっ!!!いまここにいたのっ、あれっ、お兄ちゃんでしょっ!」

 

「ええ、知っていますよ。ユキエにも見えましか。そうか、そうですか、やっぱり見えましたか。おそらくあれは、シンゴが戻ってくる予兆のようなものです。だから、あと少しです。あともう少しで、シンゴを闇の中から助け出すことが出来る。ラーフさんの分身が、この世界に降り立ったようです。そして、闇穴を封じ出したんです。だからあと、もう少しです。」

 

 

時々、自分の記憶を信じられなくなることがある。それが本当にあった出来事の記憶なのか、まったくありもしなかった虚構の記憶なのか、あるいはもっと別の、本当でも嘘でもないものとして存在する、混沌の記憶なのか。

 

リアルとバーチャルの混沌、あるいは暗桃色に沈む怪物。

 

人はいろんなことを忘れてしまう。美しい記憶も薄汚れた記憶も、そして自分ではまったく気付きもしないでいる記憶も、いつかドス黒いピンク色をした深い泥土の奥深くに沈み込んでいってしまう。

 

そしてそれはきっと、多くの記憶がはじめから、忘れ去られるべきものとして、その泥土の底にいる禍々しい怪物に飲み込まれるものとして、いまここにあるからなのかもしれない。

 

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月白貉