少女と白猫
いつも日課にしている夕暮れのランニング中、コースの終盤にある雑木林の散策路を走っていると前方に見かけない初老の男性が歩いているのが目に入ってきた。
冬の夕暮れ時というものは、ついさっきまでオレンジ色だった世界が、ほんとうに「あっ」という間に漆黒の闇の世界に包まれてしまう。
老人のすぐ背後まで近付いた時がまさにそれで、さっきまで陽気な雑談をぶっていたような周囲の木々たちがいっせいに口を閉じ、目を閉じ、そしておそらくは耳も閉じて動きを止めたかと思うと、地面とぼくの足とのわずかな隙間からあふれるように真っ黒い闇が湧き上がってきて、一瞬にして雑木林を満たしてしまった。
前を歩く老人に気を使い、すれ違いざまに「こんばんは。」と声をかけながら、ものすごくゆっくりとした歩みのその老人の横を通り過ぎると、何かがぼくのかぶっているニット帽を引っ張りあげるような感覚があり、それと時を同じくして後ろから声があがった。
「あのあなた、ちょっとちょっと。」
その声に反応して足を止め、「はい?」と言いながら後ろを振り返ると、そこにはいまさっきまでの老人ではなく、ローブのようなものを着込んだ小さな女の子が真っ白い猫を抱えて立っていた。ぼくはその状況の意味がまったく理解できなかったが、この場をすぐに立ち去らなければいけないという直感的で禍々しい恐怖を感じ、ぼくを呼び止めたその声を振り払うように全速力で走りだした。
もう一度だけ後ろから声が聞こえた。最初にぼくを呼び止めた声は確かに初老の男性のようなかすれた野太い声だったが、ぼくが全速力で走りだした直後に後ろから聞こえてきた声は、確かにキーの高くて柔らかい小さな女の子のような声だった。
「頭の上に・・・、」
息を切らしながら必死で雑木林を抜けて街灯のうっすら灯る住宅街まで出ても、ぼくは後ろを振り返ることこが出来ず、そのまま出来る限りの全速力で家まで走り戻った。
「あら、いつもより早いんじゃないの、おかえり。」
玄関の所で植木に水をやり終えた母が、玄関の扉を開けながらそう言って家の中に入っていった。ぼくは母に続くように家の中に入り、玄関でランニングシューズの紐を解いていると、背後から母が大きな声をあげた。
「ちょっと、頭に何のっけてるのよっ!!!」
玄関脇に置かれた姿見に顔を向けてみると、ぼくは走りに出た時のグレーのニット帽をかぶっておらず、その代わりにぼくの頭には黒色と薄茶色のまだら毛を生やした細長い生き物のようなものがガッチリとしがみついていた。普通の生き物であれば大抵は四足だというのがぼくの持っている常識だったが、鏡に写ったぼくの頭の上のものからは、少なくとも六本以上の小さな猿の手のようなものが伸びていて、ぼくの頭部の皮膚を引きちぎらんばかりにギュッと掴んでいた。
「わあっ!」と叫んで自分の頭に手をやると、なにか巨大な亀の子たわしを触ったような感触があり、同時に額のあたりに激痛が走った。
「なにっ、ねこっ、猫なの!?ちょっと何連れて来てんのよ〜っ!!!」
ぼくの頭の上の何かはぼくの頭を蹴り飛ばしてバサッという音と共に玄関の床に飛び降りると、そのまますごいスピードで台所の方に駆けて行ってしまった。
その後すぐに台所の方で鍋がいくつも床に落っこちるような音が響き、妹の叫び声が聞こえてきた。母が台所の方に駆けてゆく後ろ姿を目に入れながら、ぼくは無意識に痛みのあった額を触っていたが、特に噛みつかれたような傷跡はなく出血もしていなかった。
自分の掌から再び母の方に視線を戻すと、母が片足を上げて駆け出す姿勢のままピタリと動きを止め、一切動かなくなっていた。片足は完全に宙に浮き、もう片方の足もつま先ほどしか床には付いていない状態で、母は静止している。ふと気付くと、ぼくの周囲がまったくの無音状態になっていることに気が付く。
「かあさん、かあさん!」
ぼくの声は出ているようだが、母はまったく反応せず、おかしな状態で制止したまま動かない。
次の瞬間、何かの気配を感じたぼくが玄関の扉に目をやると、玄関の扉はいつの間にか全開に開け放たれており、そこには先程の小さな女子が、やはり真っ白い猫を抱えて立っていた。
「あれを連れて帰ります、あれはA級の指名手配犯で、とっても危険です。もう少ししたら、将軍もやってきますが、将軍は歩くのが遅いので、もう少ししないとやってこないです。その前にぼくたちで、殺ることにします。あれはどこにいますか?」
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月白貉