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ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲が自らの感覚で日本を歩きまわって見聞を広めたように、故郷を離れて旅を続けるぼくが、ぼくの感覚でその土地を歩き回って、見たり聞いたり嗅いだり触ったりした、ぼくの見聞録です。

日本各地に散らばる、歴史では語られない謎の石球の話。

小説 小説-短編

私は若い頃から神社や仏閣を見て回るのが好きで、まあ好きというと多少語弊があり、確か二十歳を過ぎた頃からだったかと記憶しているが、たとえば日々の散歩や旅先での散策の折に、神社や仏閣、あるいはそれらしき気配のする場所を目にすると、それがたとえどんなものでも、あるものを見るために、あるものを探すために、そこについつい立ち寄って足を踏み入れてしまうようになっていた。そうなるに至った経緯には、もちろん、とある切欠があるのだが、まあそんな風なことを長らく続けていた昨今では、そういった偶然性に任せたものだけには留まらずに、事前の情報収集や調査を踏まえて、ある場所を目的地に選んでわざわざ遠方まで足を運ぶほどにまでなった。

 

けれど特に私は、神道やら仏教の何かの宗派に自身の信仰を強く持っているわけではなく、祭られている神や仏に関しての深い知識を有しているわけでもない。ではその建築様式などに魅せられているのかといえば、それもまた違う。そのためいずれの神社や仏閣を訪れても、祭神が宇迦之御魂神だとか、本尊が千手観音菩薩だとか、本殿の建築様式が大社造りだとか、その程度のことには多少目を向けはするものの、私が見たいと思っているもの、私が探しているものは、まったく別なものなのである。

 

では、いったい何を見たいのか、何を探しているのかと言えば、そういった宗教施設の本殿ないしは本堂の裏側の土地、裏手の森、周囲の森の中、参るものがいなくなった奥の院、寂れて荒れてしまった禁足地、さらにはご神体とされている山の中、場合によってはその周辺の、これは勝手な憶測の域を出ないが、聖域とは逆に忌まれている土地など、そういった場所に、ある過去の遺物が残されていることがある。そしてそれこそが、私がそういった場所に足を運ぶ理由になっている。

 

その遺物は土地々々によって多少の違いを持っているのだが、大抵の場合には限りなく真球に近い石の球であり、さらには大きさも様々なものがみられるのだが、どの石球にも共通した重要な特徴としては、石球の表面に何かの動物かあるいは昆虫の目のような形がひとつだけ、話によればそれは左目か右目かの区別があるというが、ひとつの石球にはそのどちらか片方の目だけが刻印されている。

 

そしていずれにせよその石球は、ゴライシないしはゴラダマ、あるいはマゴラダマと、古くからそう呼ばれている。

 

日本各地に散らばる、歴史では語られない謎の石球の話。

 

私の知る限りでは、その石の存在は日本に古くからある石信仰あるいは巨石信仰などとはまったく異なったものであり、その成り立ちについては人々の歴史を遥かに遠く遡るもので、その石球の形成は人の手によるものではないとされている。そうなってくると自ずとそれは、人間の宗教やら信仰などというものとは、遥かにかけ離れたものだということになる。

 

私はそれを見るために、そして探しだすために、あわよくば手に入れるために、そういった場所に赴くのである。

 

そんなものが果たして本当に存在するのかという、その前提の話もあるのだが、私は実際に二度だけ、その石球をこの目に映したことがある。ただ、私がこの数十年の間に、その石球を目にしたことがあるのは、そのたった二度だけに留まっている。今の現代のこの日本に、果たしてその石球がどれだけの数あるのかはまったくの未知数であることに加えて、もちろんそれは正常な歴史には語られることのない側面を持った事柄でありモノだからなのであり、前述した事前の情報収集や調査などと言っても、自身の動きに関して言えばごくわずかな直感めいたものによる気休め程度の当てずっぽうな神社仏閣探しに過ぎず、ではそんなものでよくも現物を目の当たりにする機会を、なんと二度も得たかといえば、それは私がなぜ、そんな奇妙な行為に目覚めてしまったのか、あるいは目覚めたというよりは、なぜそんな夢の中へ落ち込んでしまったのかという理由として佇む、あるひとりの女性の話に触れなければならない。

 

ただその前に、私は今この文章を、西日本のとある地方都市の外れにあるビジネスホテルのロビー、その小さな喫茶スペースで書き記している。諸々の事情において、その詳細な場所はここでは明かすことは出来ない。ただなぜ今私がここにいるのかと言えば、これは偶然としか言いようが無いのか、あるいはもしかすれば必然以外の何物でもないのか、それはいずれわかることなのかもしれないが、数日前に私がたまたま閲覧していたインターネット上のとあるウェブログに、あの石球のこととしか思えないような言葉を見つけたからである。

 


私は早速この「オトナブログ」というウェブログサービスにおいて新規のアカウントを作成して、この文章を書いている人物に、その記事へのコメントという形で複数回コンタクトをとり、ちなみにそのやり取りの内容はもちろん公には閲覧できない設定のもとであるが、その文章中に記された内容と石球との関連について、また文章中に記された山をご神体とする廃神社の詳細な場所の情報について、知ることとなったのである。ちなみにこの文章を書いている人物によれば、この話の大部分はフィクションであって、文章中の廃神社のモデルとなっている場所は確かに実在はするものの、私の探している石球のようなものが、その場所にあるかどうかということについてはまったくわからないと言っている。

 

文章中に記されたゴラダマという名称については、その地域のずいぶん古い土俗信仰に関連した文献から見つけ出してきたものと、同じくその土地の地誌研究家の老人から伝え聞いた異聞をつなぎあわせた自身の創作物であり、文献に記された語彙が、実際には何を意味するものなのかは、はっきりとはわからないとだけ語ってくれた。

 

しかしそれでも私には、その場所には確実に何かが存在するという、大いに身勝手でまったく根拠の無い見解に身を委ねるという選択肢以外は、考えられなかったのである。

 

そのウェブログでのやり取りの最後に私は、その情報に対する感謝の意と、その場所を訪れてみるという強い意志を伝えると、その返答としてその人物からこんな言葉が送られてきた。

 

わかりました、こちらこそ大したこともお伝えできずに、そして残念ながら、なんの力にもなれずに申し訳ありません。ただ最後に、こう書いたところで、ぼくにはあなたの強い意志と行動を止めることは出来ないかもしれないけれど、あの場所には、特にその後ろの山の、お伝えした別ルートでの山頂への件ですが、正直に言えばゆくべきではないと思います。おそらくですが、危険な場所です。ぼくのあの話は先にも言ったように大いにフィクションなのですが、あの物語に語られていることで、文字にはしていない核の部分について言えば、じつは本当のことだからです。そのことについては、実はある事情があって、お伝えすることは出来ません。最後に再び、ゆくべきではないとだけ、お伝えしておきます。でもたぶん、ゆかれるのだと思いますが。

 

もし何かあなたに邪悪な闇が降り注いだ時には、ぼくは神様なんて信じてはいないのですが、なにかそれに相応するような、その闇を照らし消し去るような何かの加護があるよう、陰ながら願っています。

 

それでは、無事に帰った際には、その旨だけでもお伝えください。

 

セコより

 

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月白貉

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