図書館
温泉宿で働き出してからの九日間、若干のトラブルはあったものの番頭さんの機転のおかげでなんとか研修期間も終えることが出来たのだが、急な団体客の予約や女中頭の紀子さんの体調不良などによって、結局ぼくが休みをもらうことが出来たのは勤務し始めてから二週間後の雨の水曜日だった。
ぼくの生活するアパートの周辺には木神商店を除けば数軒の民家が点在するくらいで、休日を有意義に過ごす施設のようなものはまったくと言っていいほど何もなかった。
もちろんそのかわりに自然に関しては嫌というほど豊富だったので、玄関を出ればほんの数分で山に分け入ることが出来た。東京に暮らす頃から、暇さえあれば関東近県の山に登りに行っていたぼくにしてみたら、まさに天国のような環境ではあったのだが、二週間の間、朝から晩まで働き通しだったぼくの体に山歩きに出かける余力などは残ってはいなかったし、その日は朝から冷たい雨が降り続いていた。
体はずいぶんと疲れているはずなのだが、その日は仕事が休みだという開放感からか、朝の7時過ぎには目が覚めてしまったぼくは、家の冷蔵庫にあるあまりもので簡単な朝食を済ませると、ふと思い立って急いで身支度を整えて近所のバス停まで走った。ぼくがバス停で市街地へ向かうバスを待つほんの数分の間に、雨は急に勢いを増し、遠くで雷鳴が轟くのがかすかに聞こえていた。
「古い図書館の方はねえ、原因不明の火事で三年ほど前に焼けてしまったんですよ、
あれはすごい火事でしたなあ。あんな大規模の火事が原因不明で済んでしまうなんてことが、果たしてあるのかどうか私は疑問ですけれど。だから変な噂もずいぶんたってねえ。まあ、それからしばらくして、新しい図書館の建設が始まって、つい最近になってやっと立派なのが出来ましてね、前の図書館は古さも加わってずいぶんとお粗末でしたが、今度の図書館は立派ですよ。お休みが取れたら行ってみるといいですよ、白酒くん、あれはまさに白亜の宮殿です。」
「この町には図書館はありますか?」と、ぼくがある日の休憩時間に番頭さんにたずねてみると、
「町にはねえ、いわゆる図書館は無いんですよねえ、
ずい分昔はあったけれど、それだってもう私の子どもの時分の話ですから。きみも通りを歩いてみて気付いたと思うけれど、この町の住民もわずかですよ、だから町に図書館があっても使う人がほとんどいないわけです、ああ、私設の図書室のようなものは公民館の中にはあるけれど、古びた三文小説が二三十冊ある程度じゃないでしょうかねえ。そこですら、使われているのかどうかも怪しいです。」
そう言って彼は、市街地に新築された図書館のことを教えてくれた。
月白貉