ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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日本の憑物の源流 - キツネにならきっとわかる憑物の話 -〚 第玖話 〛


近世において、憑物についての言及がある文献を見てみると、例えば『本朝食鑑』には狐を使うための方法が詳しく述べられていたり、『善庵随筆』にもクダ狐の駆使方法に関する解説が書かれていたりする。

 

一方で狐使いが刑に処されたとの記述も、『筠庭雑録』や『兎園小説』などに見ることが出来る。

 

さらに中世以前まで遡ってゆくと、『応仁後記』、『源平盛衰記』、『平家物語』、『古今著聞集』などにも、飯綱使い・荼吉尼の法・外法使いなどといった憑物使いに関するものは多く見られる。そしてさらに古代までゆくと、『文徳実録』には妖巫という記述があり、『続日本書紀』でついに蠱毒、巫蠱といったものにゆき当たるわけであって、前述もしているのだが、つまりはこの大陸の蠱道の流れが日本の憑物の源流にあたるのではないかと言われている。そしてこういったことに関する研究が、すでに江戸時代からなされているのである。これは例えば、『塩尻』、『雑説嚢話』、前述している本居宣長の『賤者考』などに見ることが出来る。

 

『捜神記』などを見ても、蠱を飼って財を成した富豪の話が出てきており、たまたま家の主人が留守にした際、その妻が瓶の中に入っている大量の蛇を見つけて驚いて熱湯をかけて殺してしまい、その後この家が絶えてしまったという話があり、これは日本各地で言われているトウビョウや犬神の話に酷似している。

 

石塚尊俊はこういったことを踏まえて、日本の憑物の思想の中に大陸の蠱術の道統が流れているのは否定出来ないと述べているが、一方では、すべてが大陸に起因するかといえば決してそうではないとも述べている。

 

つまりは日本においても、そもそもこういった動物への信仰が根底になければ、例え大陸から蠱道のようなものが流れ入ってきたところで、おいそれとは受け入れることは出来ないだろうということである。

 

そしてやはり日本にも古くから、狐や狸や蛇といったものに対して、何か人には知りえぬ力を備えているという考え方は確かに存在していて、例えば狐の鳴き方で吉凶を占ったり、蛇の動きで雨を予測する俗信があったり、そういった動物の特殊な能力に頼ろうとする風は、現在でも多く残されている。

 

日本の憑物の源流 - キツネにならきっとわかる憑物の話 -〚 第玖話 〛

 

新潟県高田市の浅井神社では、「お晴見祭り」という、毎年春になると山から蛇を捕ってきて、その動きによって晴雨を占う神事があったり、福島県南会津郡では、鼬寄せ、犬寄せというものがあり、村人が鎮守の森に集まり、依童を中心にして大勢で呪文を唱えて、鼬の霊や山犬の霊を呼び寄せて託宣を聞くというものがあったりする。

 

もちろんごくごく今日にもそういう風は残っていて、若いものの遊び半分の行為としてではあるが、コックリさんなどというものは、その類の流れに他ならない。

 

次回へ続く

 

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月白貉