ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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第七章 - 黒い恐怖

前回の話第六章 - 孤独な蛙


かつてこの場所にあった黒木山を一部切り崩して建設された南黒町団地は、その背後に幾つもの低い山々が連なる町の外れの高台にあった。

 

団地のある高台の上へと続く大蛇のようにうねった坂をあがりきると、もう誰一人住むものがいなくなった団地にある三棟の建物たちが、それぞれに異様な威圧感を放ちながら無言で目を閉じたままこちらに顔を向けて座っていた。あるいはこの瞬間、建物たちは座って眠りこけている最中なのかも知れなかったが、その背後に広がる漆黒の山々のシルエットは、建物が背中に備え持ち、いま正に開かれようとする大きな黒い翼のようにも感じられた。

 

ぼくは塩田の家を訪れるため、何度もこの坂をあがりこの景色を目に映しているはずだった。けれど今ぼくの目の前にある団地の姿は、ぼくの知る南黒町団地とはあまりにもかけ離れたものに感じられた。よく見知ったこの団地が、なぜこれほどまでに禍々しく悪魔的な空気に満ち満ちたように感じられるのかが、ぼくには到底理解できなかった。

 

事件の後、団地への立ち入りは警察によって制限されていて、敷地の周囲はグルッと一周、工事現場などで見かける黄色と黒のトラ模様のような色をした背の高い錆びついた鉄柵で厳重に囲まれていた。団地の周囲には幾つもの外灯が灯っていて、辺りを覆う闇を取り払おうとしていた。しかし今、その場に充満した、以前とは明らかに違う異質な闇を照らし排除するには、その外灯の光はあまりにも力を欠いているように思えた。

 

団地の入口付近の鉄柵の間には、太い鎖と無骨で巨大な鉄の南京錠で封鎖されたアコーディオン式の門が設置されていた。その門から少し距離を置いて立ち止まった祖父とラゴに習って、ぼくはその背後で少し距離をおいて立ち止まり、二人の背中越しに改めて団地の棟を見上げたが、やはり彼らは眠っているように見えた。

 

祖父とラゴはぼくの目の前でお互いの顔を向き合わせ、無言のまま何かを打ち合わせているようだった。そのしばらくの間、祖父の脇にピタリと張り付いて立っている尼僧姿の老女が時折振り返って、二人をじっと見つめているぼくの方に目を向けた。彼女と目があう度に、ぼくの横を冷たい風がスッと通り抜けていくような感覚があった。そしてその真っ白い顔からは依然として、すべての感情が欠落しているように見えた。

 

打ち合わせが終わったのか、再び正面の入り口に二人が顔を向けなおした後、ラゴが背後にいるぼくの方に上半身だけを振り返って、歯をむき出しにしてやけにいたずらな笑みを浮かべてから祖父の背中をバンっと勢い良く叩いた。もしかすると二人はぼくのことで何かを話していたのかもしれなかったが、その内容はぼくには一切明かされなかった。

 

祖父はラゴに背中を叩かれると、やはり上半身だけぼくの方に振り返ってじっとぼくの顔を凝視した。その顔はラゴのような笑顔では一切なく、さらに圧を増した黒い刃物のままだった。祖父は再び団地の入口に向きなおると、ひとりで入口にある門の方へ歩き出した。

 

「これから鍵を開けて団地内に入る、第一幕ってなとこだ、備えな。」

 

ラゴの声が頭の中に響いた。

 

祖父はゆっくりとした歩調で門に近付き、門を封鎖している鎖にかかった南京錠に手をかけると、ジーンズのポケットから鍵のようなものを取り出して南京錠のロックを解除しているようだった。ラゴはそちらに目を向けながらも、首や肩や手足をウネウネと動かしながら、何かストレッチのようなことを始めだしていた。

 

すると突然団地を囲む鉄柵の奥から、周囲の空気を圧倒的にビリビリと震わせる怒号のような、あるいは獣の咆哮のような大きな音が響き渡り、まるで震度六ほどの地震でも起きたかのように鉄柵がガシャガシャと激しく揺れ動いた。その音の矛先は直感的に、そして言い換えれば明らかに、ぼくたちに向けられたものだった。

 

その音が耳にこだました瞬間、ぼくはまるで金縛りにでもあったように体が硬直し、続いて信じられないほどの吐き気が沸き起こってきた。さらに吐き気だけではなく、激しい下痢を起こした時のような恐ろしいほどの便意が追随してきた。すぐにでも口から大量の嘔吐物を吐き出し、尻の穴からとめようのない汚物が吹き出す寸前の状態が、突然目の前に隆起した大波のようにして身を襲い、ありえないほどの玉汗が体のいたるところから垂れ落ちてきた。ぼくは思わず口と下腹を押さえながら半ばしゃがみ込むような体勢を取り、体の中で激しい苦痛を伴って暴れ狂い外に飛び出そうとしているものを必死で押し堪えた。その大波を抑えること以外には、もはや何も考えられるような状態ではなくなっていた。

 

瞬間的に体中の筋肉に異常な力を入れたことに加え、体温が急激に低下したことにより、硬直したぼくの体は目の前で揺れ動いている鉄柵と同じようにガタガタと震え、もう自分の力では止めることさえ出来なかった。

 

涙で滲んだ視界は霞みおぼろげになり、断続的に、そして斑模様に意識が遠のく感覚があった。激しい耳鳴りの向こうでは、依然として何者かの叫び声のような轟音が響き続けていた。

 

そのあまりの苦しさからどうにか逃れようと身を捩らせ、その末に喉からおかしな叫びが漏れ出しそうになったその時、背中にいる猿神の声が混乱を極めたぼくの頭の中に、太くて鋭い畳針でも差し込んだかのように、力強く響き渡った。

 

「ゆっくり鼻から息を吸えるだけ吸って、それをゆっくり口から吐き出せ、坊主。」

 

ぼくはその声に従い、揺れ動く体を必死に押さえつけながら、猿神に言われた通りゆっくりと鼻から目一杯の空気を吸い込み、その空気を口からゆっくりと吐き出した。すると今まで体中を駆け巡っていた大波が一気に力を弱め、硬直した体もその震えも、嘘みたいに急速に収まっていった。軽い吐き気だけはまだ体の中で疼いてはいたし、依然として体の寒気は止まらなかったが、どうにかまともな意識を取り戻し、立って正面に目を向けることが出来た。

 

団地の奥から鳴り響いてきた正体不明の音はその時すでに消えていて、辺りを静寂が包んでいた。しかしそれは静寂を超えたものだった。団地にたどり着いた時には聞こえていた遠く背後の町から響くノイズや、あるいは周囲の草むらで囁かれる虫たちの会話が一切聞こえなくなっていた。まさにそれは無音の状態だった。耳鳴りとはまた違う、もっと別な種類の耳の痛みが耳の中を冷酷に引き裂きでもするかのように思える、まったくの無音だった。その時、もし仮にぼくが口を開いて大きな叫び声をあげたとしても、おそらくそれはその深遠なる無音の中に吸い込まれてしまい、一切音にはならなかったはずだ。

 

ぼくの目の前では、祖父もラゴも、その場をまったく動かずに状況を見ているようだった。祖父の隣にいる尼僧がこちらに振り返ってラゴの方を数秒見つめてから、また正面に向きなおったのが見えた。

 

次の瞬間、和太鼓のような地響きと共に鉄柵の奥から突然現れた何か巨大で黒い塊のようなものが、アコーディオン式の門とその周囲の鉄柵の幾つかをなぎ倒した。門のすぐ手前にいた祖父とそれに付き添う尼僧はまるで風に煽られた紙くずみたいにして大きく体を吹き飛ばされて宙に舞い、祖父は激しく地面に叩きつけられてうめき声をあげた。

 

眼前には、地面に横倒しになった門と鉄柵をバキバキガシャガシャと押しつぶしながら、その向こうの奥の黒い闇の中からジワジワと溢れ出てくるようにして、真っ黒に湿った皮膚を持つ巨大な人間のようなものが四つん這いになって姿を現した。

 

その黒い者の顔だと思われる部分には目も鼻も口も、そして耳もなかったが、それは確実にこちらを、その正面に立つラゴのことを睨みつけでもするようにして、じっと見ていた。

 

その理解しがたい異様な光景からシューシューと音を立てんばかりに放たれる、まるで数千体の死体の山から漂ってくる腐臭のような絶望的で耐え難い恐怖に、ぼくは頭から捻りつぶされそうになっていた。手や足だけではなく、体中に凄まじい鳥肌が波打っているような感覚があったが、果たしてそれが現実かどうかさえもわからなくなっていた。あまりの想像を超えたものを前にして、ぼくはそれから逃れたいという一心から、いっその事目の前の黒く悍ましい塊に駆け寄ってしまいたいという欲求さえ生まれるほど自分を制御するものを失い、正に何かに飲み込まれつつあった。

 

「息を吸って、息を吐け、さっき教えたばかりだろ。」

 

その時、再び届いた猿神の声に、ぼくの意識はこちら側の世界の光を思い出した。いつでもこちら側に振り向くことが出来ることを、少しだけだが思い出した。いまこの只中、ぼくはいつもは当たり前のはずだった呼吸の仕方さえも、まったくわからなくされてしまっていたのだ。そしてぼくは瞬間的に理解した。体の硬直も、吐き気も便意も、汗も鳥肌も寒気も耳鳴りも、それはぼくの恐怖心が生み出している。その恐怖心を制御できさえすれば、すべてを抑えることが出来るはずだ。そして恐怖心を制御する術とは、当たり前の呼吸を保つこと、ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと息を吐くことだと、猿神はぼくにそう教えてくれているに違いなかった。

 

ぼくはさっきと同じように、ゆっくりとありったけの空気を鼻から吸い込み、そしてゆっくりと口から吐き出した。するとぼくが思った通り、呼吸を正常に戻すことだけでも、目の前に迫りくる常軌を逸した混沌たる悪夢の恐怖を、その恐怖自体に支配されずに感じることが出来ているような気がした。そこにあるのはもちろん揺るぎなき恐怖には違いなかった。

 

しかしいま、ぼくはその恐怖を、立ち向かわなければならない恐怖だと、そう理解した。

 

第七章 - 黒い恐怖

 

 

 

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月白貉