ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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地蔵憑けと地蔵遊び - キツネにならきっとわかる憑物の話 -〚 第拾肆話 〛

 

福島県のいくつかの地域には「地蔵憑け」あるいは「地蔵遊び」と呼ばれるものがある。

 

これはその地域に病気、縁談、失物などがあった場合に、ある家に女たちが集まって行う、一種の占いか託宣を受ける儀式のようなものである。

 

集まった女たちが円陣を組んだ真ん中に、憑代あるいは依童をひとり座らせ目隠しをして笹やナンテンの枝を手に握らせる。そして「ナム地蔵大菩薩 オイノリモウセバ天マデトドク ナム地蔵大菩薩・・・」などという呪文を繰り返し唱え、憑代の手に持つ笹や枝が震えだしたら地蔵が憑いたと判断して、この地蔵に質問をしてゆくというものである。

 

またこの儀式を遊びとして、女の子供たちだけで行う場合もあり、子供たちだけで行うものを特に地蔵遊びと呼ぶ。

 

この憑代になる者は子供でなければいけないという場合もあるし、持ち回りや抽選などで決まった大人がなる場合もあるが、いずれにせよ女性を憑代にすることが多いようである。また五分以上続けると憑代が疲れてしまうため交代制で行われるという話もある。さらにはこの憑代がある特定の人物に定められていることもあり、その場合には大抵が老婆で「地蔵婆さん」とか「地蔵バッパ」などと呼ばれていたという。

 

地蔵憑けを行う際には、特に周辺に実際の地蔵がなくても憑けることができると言われているが、地域によっては地蔵自体をどこかから借りてくる場合もある。

 

質問を終えて地蔵をかえす際には唱え言をしなければならず、「南無地蔵カエラッシャンセ」とか「ナム地蔵 カエレ カエレオイノリヤーレ オ地蔵サン」などと唱えると地蔵が離れる。この際に依童が泣き出すことなどがあったという。

 

この地蔵憑けは例えば今日でもよく知られるコックリさんに非常によく似ている。託宣としてだけでなく子どもの遊びとしても広くやられていたという部分も、コックリさんと同様である。

 

地蔵憑けと地蔵遊び - キツネにならきっとわかる憑物の話 -〚 第拾肆話 〛

 

コックリさんにおいても言えることであるが、果たしていったい憑代には何が降りて来ているのかと考えると、若干気味の悪いものがある。この地蔵憑けにおいても、本当に地蔵菩薩が降りて来ているのかどうかは、果たして。そもそも子供の遊びに付き合って、地蔵菩薩が直々に降りてくることなどがあるのだろうか。

 

では憑代に憑いている地蔵とは何か、と考えるとやはり少し気味の悪いものがある。

 

次回へ続く。

 

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月白貉