真実ビール
湖岸をジョギングをしながら陽に煌めく水面を見ていると、身に抱えている薄暗い闇の欠片が、あの煌めきの一片とさして変わりがないように思えてくる。
煌めく水面の下の、煌めきの隙間から、エイが泳いでいる姿が見えた。その揺らめく姿が異常なほど美しく思えて、しばらく足を止めて見入ってしまう。エイは二匹いて、小さいほうが大きなほうに親密に寄り添っている。窓から吹き込む風が静かに揺らす透き通ったカーテンのように、二匹のエイは揺れている。あるいは空の上で風に揺られるエイが水面に写っているんじゃないかと思って空を仰ぐが、夏の太陽の光が強すぎて、青い空も、空に揺れる二匹のエイも、見えない。水面に目を戻すと、エイはいなくなっていた。
再び走りだしたぼくは、湖の一角に佇む二体の地蔵を折り返して、いつもの様にもと来た道程を、距離にして約五キロほどを、前半よりもペースを落としながら駆けてゆく。
前方の古い樫の木の根本、大きく日陰になった場所のベンチに、先ほど通りかかった時にはいなかった老人の姿があった。手に缶飲料のような物を持って背を曲げて座り込み、湖をじっと見つめている。ベンチの脇には昭和初期の蕎麦屋が出前で使っていたような古ぼけた自転車が停めてある。
「あ〜、うめえ!」
老人が缶飲料を口に運んでから、そう声を発したのが聞こえてきた。老人との距離が徐々に縮み、手元がはっきりと見えるところまで来ると、それが缶コーヒーだということがわかった。そして、ぼくが軽く息を弾ませながら老人のちょうど真横まで差し掛かったところで、こちらにちらりと目を向けた老人が、歯をむき出して笑顔を浮かべたのが横目に見えた。
「夏のビールは、うめえな、おいっす!」
反射的に「こんちわっす!」という挨拶が、ぼくの口から飛び出す。ぼくは普段「こんちわっす」という挨拶を口にすることはない。ただ、老人の「おいっす」という言葉遣いにつられてしまったのか、あるいは何かが空気感染してしまったのか、脳がぼくの意志には反して、老人に合わせて挨拶を「こんにちは」から「こんちわっす」に変換させたようだった。
老人の横を通りすぎてからしばらくして、あれはビールだったのかなあ、という疑問が後ろから急速に追いついてくる。手に持っていたのは、ぼくの目が夏の暑さでイカれてしまっていなければ、完全に缶コーヒーに見えた。もしかしたら周囲の人の目を気にして、缶コーヒー柄の容器を自作して、そこにビールを忍ばせてきて、湖岸でたのしんでいたのかもしれない。そんなことを考えながら走っていたら、何だかとても幸せな気分になってきた。夏のビールは確かに美味しいし、夏の挨拶には「こんちわっす!」が似合っているだろう。
しばらく走ると、後ろからチリチリチリンと、自転車のベルの音が聞こえてきた。次の瞬間、ぼくの横を走る自転車に目をやると、それは先ほどの昭和の蕎麦屋風の自転車で、もちろんあの老人が乗っていた。
「おいっす!」
老人は自転車のスピードを落とし、ぼくに並走し始めた。
「こ、こんちわっす。ビール美味しかったですか?」
「おう、美味しいに決まってるよ。でもありゃあ、コーヒーだがよ!」
「あっ・・・やっぱり。」
「ただ、そういう概念にとらわれちゃおしまいだよ、見えているものがすべてじゃねえんだ、なあ、そうだろう。」
「はい。」
「そうだよ、だからあんたもそんなに気張ったり悩んだりしなさんなってんだ、あんたの世界はあんたがよく知ってんだから、それがあんたの世界だよってんだよ。それに味方はいつだって、どこにだって必ずいるさね。ほれ、帰ってこれでも飲んでくれやい!」
老人はそう言って、こちらに缶ビールを放り投げた。突然の事だったので危うく落としかけたが何とか受け取ると、不思議な事にその缶ビールは、この炎天下の中でもキンキンに冷えていた。
「そいじゃあなっときたもんだ〜!」
老人はそう言い放って自転車の速度を上げてぼくを追い越して行ったかと思うと、自転車のハンドルから両手を離して腕を左右に水平にあげ、その腕をピンと伸ばしながら手放し運転で走り続けた。手放し運転を始めた瞬間から、自転車の速度は猛烈に上がったように感じられた。
「これより帰還いたしますっ!」という叫び声を最後に、老人の姿は路地に消えていった。
缶ビールを手に持ったぼくは、知らない間に涙を流していた。そして、その後しばらく、涙を止めることが出来なかった。
月白貉