ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲が自らの感覚で日本を歩きまわって見聞を広めたように、故郷を離れて旅を続けるぼくが、ぼくの感覚でその土地を歩き回って、見たり聞いたり嗅いだり触ったりした、ぼくの見聞録です。

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明
明

ぼくは羊の群れの中で、狼が来たぞと嘘をつく。

ぼくは嘘をつく。

 

自分を防御するために嘘をつくし、誰かを楽しませるために嘘をつく。時々は自分の密かな欲求のためにつく嘘もある。

 

そういう嘘の息遣いには慣れているし、そういう嘘の味は案外好物でもある。そして、嘘も方便、自分を満たすためだけではなく、嘘が何かを、誰かを手助けすることもある。

 

嘘が非常にいいものだとは断言出来ないが、決して悪いものでもない。

 

それは扱い方の問題で、どんなものにも、必ず表のような片側と裏のような片側の二つの部分が存在する。だからぼくは、その存在を探りつつ、その嘘の片方の部分を、よく使うことがある。

 

片方の部分を使い出すと、どうしてもう片方の存在に気が付きだし、そのことが知りたくなる。いったいもう一方にはどんなものがあるのか。でも、いずれ、そのもう片方には闇のようなものがあることを知る。嘘と呼ばれるものの負の側面が、本質的な嘘の核みたいなものが、もう片方には眠っている。だからぼくは、そこには手を出したことはないし、出すつもりもないし、何か本能的に、あるいは直感的に、危険だと感じて、出すことが出来ない。つまり、いちばん本質の部分では嘘がつけないでいる。

 

それは誰かに対してもだけれど、もちろん自分に対しても。自分に対して、真っ向から真剣に嘘をつくってことは、それは禁じ手あり、タブーでもあり、嘘のもう片方の部分の暗闇に通じている。自分に本意気の嘘をつけるという段階まできてしまった人は、それはもう禁じ手を破っていて、タブーを犯していて、暗闇に足を踏み入れてしまっていて、それは手遅れの病気みたいなもので、それはもう、嘘つきとは呼ばない。嘘つきなんていう生易しいものではなくなっている。

 

嘘のもう片方の、真っ暗い裏の部分。

 

そこに足を踏み入れると、体や心が変質しだす。それは人ではなく、まったく別の、体中に白い剛毛を生やした、頭に二本の捻れた角を持った、何か異質な二足歩行の魔物じみたものになる。そして、口から黒緑色の煙のようなものを吐き出しながら、さまよい歩く。その不快な煙は、おそらくはぼくの知らないもう片方の、嘘が具現化した姿なのだろう。

 

そういう人がつく嘘は、さながら疫病みたいなもので、周囲にも大いに邪悪な影響を伝染させる。

 

その嘘は漆黒で誰かを包み込み、その闇の中で、その嘘は禍々しい拳で誰かを殴り倒し、その嘘は牙毒で誰かを蝕み、その嘘は誰かを貪り喰う、まったくの闇の中で。

 

そういう人を、何度かみたことがある。

 

ぼくは羊の群れの中で、狼が来たぞと嘘をつく。

 

不気味で恐ろしかった。嘘があんなにも悪魔的なものになるのだと知った。だから出来るだけ、そういう人には近付かないことにしている。あれは、助けるとかどうこうの問題ではなかった。おそらく、そこまでいってしまうと、誰か一人の手に負えるようなものではなくなる。もうぼくにはどうにも出来ないと、その時、ぼくは、そう感じた。

 

物事には限度というものがある。足を踏み入れてはいけない場所がある。そして、それを超えてしまえば、結局はみな、すべて同じようなものになる。既存の言葉では、その様子はうまく説明が出来ない。表現しようのない暗黒のようなものになる。

 

それは、真っ白いシーツのようなものを頭から被り、ありふれた日常の中で唐突に目の前に現れ、ふと優しげに笑って手を振ったり、心躍るメロディーを口笛で吹いたりするが、中身ではグルグルとした何かおぞましい真っ黒な渦を巻いていて、それに手を握られたり抱きしめられたりしたら、もう、素顔を見せたそれは、両手の鋭い爪を体に食い込ませて離さず、首を齧ったり手足を圧し折ったりしながら、そのままどこか地の奥底の方のグラグラとした灼熱の場所だったり、ジメジメとおぞましいものが湧きでるところだったりを経て、最終的には光の届かない漆黒へと、引きずり込む。

 

その引きずり込む際に生じた凄まじい衝撃波によって、その時近くにいた周りの者もすべて巻き込んで、引きずり込む。

 

ぼくは時々嘘をつく。嘘をつくから嘘つきだけれど、その先にはいかない。

 

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月白貉