ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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失われた六年間の記憶と、あとに残された本当はコワい足跡の話。

ぼくがかつて通っていた山間部にある小学校は、当時でも全校生徒数がわずか三十人足らずの、全国的にみてもごく小規模なものだった。

 

その小学校は、当時はずいぶんと年季の入った古い木造の校舎で、ぼくの父の頃から、なんだったら祖父の頃から、すでにその校舎だったという話を聞いたが、実際にその校舎がいつ頃建てられたものなのかは、よくわからない。それでもおそらく、少なくとも七、八十年は経過しているのではないのかと思わせるような佇まいをしていた。

 

正直に言うと、ぼくはその小学校で過ごした六年間のことをあまり鮮明には覚えていない。それはもしかしたら、その六年間を最後に、家の事情でその土地を離れてしまったからかもしれないし、理由はよくわからないが、自分の中でその六年間の記憶にフタでもしてしまったように、ぼくにはその当時のことが、ほとんどと言っていいほどよく思い出せない。

 

もちろん生徒数が少なかった為に、同級生の顔や名前はほとんど覚えている。今もしどこかの道端で偶然にすれ違ったとしても、すぐに彼らのことに気が付くかもしれないし、当時のような感覚ですぐに名前を呼び合えるかもしれない。あるいはその時には、失われていたかのようなぼくの当時の記憶が、鮮明に蘇ってくるかもしれない。ただやはり、そういった何かの強い刺激のようなものがない限り、今のぼくは、あの頃の日々のこれっぽっちも、思い出すことが出来ないでいる。

 

ただ、そんなぼくの封印されてしまったかのような六年間の記憶の中でも、ある幾つかのことだけは、いまでも、それこそ昨日観た映画のように、確固たる形を持ち、そして鮮やかな色を帯びて、ありありと頭の中に居座っているものがある。もしかしたらその記憶だけは、フタを閉じる瞬間にこぼれ落ちたのか、もしくはその記憶自体に何かぼくには制御出来ない意志のようなものが存在していて、ぼくの封印を掻い潜ってこっそりと逃げ出したのか、それはわからない。

 

その記憶というのは、ある年に学校で行われた防災訓練の日のことと、そして、学校の校舎のあらゆる場所の天井に付いていた、人の足跡のようなもののことだった。

 

ある日の朝の会で、たしかぼくはその時小学五年生だったと記憶しているのだが、担任の先生がぼくたちに、午前中に行われる防災訓練とそれに付随した避難訓練のことについて話をした。

 

失われた六年間の記憶と、あとに残された本当はコワい足跡の話。

 

「え〜と、昨日の帰りにも話しましたが、今日はこの後、防災訓練があります。そして皆さんには、避難の訓練をしてもらいます。毎年やっていますからね、まあ、もうわかっていると思いますが、今日の一時間目から三時間目までの間に、地震とか山火事とか、そういうものを想定した放送が流れます。いつ流れるのか、何が起こるのかは、先生も聞かされていないので知りません。放送で、その後どうしたらいいのか、説明が流れますから、その指示をきちんとよく聞いて、その指示に従って行動してください。」

 

二時間目が始まった頃、その時は国語の時間だったのだが、教室の前の黒板の上に備え付けられた古びた木製のスピーカーからサイレンの音が鳴り響き、続いて教頭先生の声で、震度五の地震が発生したとの放送が流れた。

 

「これより避難訓練を行います、これは避難訓練です。ただいま震度五の火災、いや失礼・・・、地震が発生しました、震度五の地震が発生しました。校舎内にいる生徒は、椅子の座布団を頭の上にのせて、すぐに机の下に潜ってください。校庭や体育館にいる生徒はその場にいる先生の指示に従ってください。」

 

教室の生徒たちは、教頭先生が地震と火災を言い間違えたことで少しざわついていたが、皆すぐに座布団を頭の上にのせて机の下に潜り込んだ。ぼくの隣の席の内山くんがしゃがみながらぼくの方を向いていて、座布団を押さえた方とは反対の手で口を押さえながら囁くようにして、「震度五の火災、震度五の火災、」と何度も言いながら、顔を真赤にして笑いをこらえていた。

 

「揺れが収まりましたが、地震にともなって理科室から火災が発生しました。ハンカチなどで口を押さえて、煙を吸わないようにして、校庭に避難を開始してください。」

 

続いて再びサイレンの音と共に放送されたのは、地震にともなった理科室での火災というものだった。四年生の時までの避難訓練は、地震なら地震、火災なら火災という、いわばひとつの災害を想定したものだったのだが、なぜかその年は、地震の影響で火災も起こるという複合的なものになっていて、訓練であるとは知っていたが、一瞬だけ小さな混乱が頭の中を駆け巡った。隣の内山くんは相変わらずやけに楽しそうにして、「先に言っちゃっんだ、な、先に言っちゃったんだ、火災って。」と言いながら、口を押さえてニヤついていた。

 

その後、教室にいる先生の指示に従い、クラスの全員が、全員とは言ってもわずかに八人というものだったが、校庭に向けて避難を開始した。

 

「では、机の下から出て、校庭に避難します。」という先生の声を合図に、ぼくが机の下から立ち上がろうとしたその時、内山くん越しに見える教室の窓側の隅に、何か黒い人の影のようなものが体育座りの格好でうずくまっているのが目に映った。それがやはり先生の声とともにシュッと立ち上がったかと思うと、教室の壁を蜘蛛が這うようにして四足でササササっとものすごい速さで駆けのぼり、天井に足を付いて逆さになってコウモリのようにして吊り下がった。それは全身が真っ黒い影のような人の形に似たもので、ぼくと同じくらいの背丈をしていたが、腿や脛、そして腕や首が異様に細く、掃除の時間に使うホウキの柄ほどしかないように見えた。そしてその腿や脛や腕が、わずかに風に揺られるようにして小刻みにユラユラと震えている。いっぽう足と掌は明らかに人間のそれで、皮膚感や皺や爪、血管やウブ毛までも見えるんじゃないかというくらいに、生々しいものだった。顔はよくわからない。顔のことはよく覚えていない。もしかしたらその顔のことだけを、ぼくは無意識的に記憶から消しているのかもしれない。笑っていたのか泣いていたのか、こちらを見ていたのかさえも、よく覚えていない。その部分だけが何故か切り取られるようにして抜け落ちている。

 

ぼくがその天井の奇妙な影に釘付けになって我を忘れていると、先生がぼくの名前を何度も呼んでいることに気がついた。

 

「吉田くんっ、吉田くんっ、どうしたんですか、避難しますよっ!」

 

その声にズンと体を叩かれたぼくはハッと気が付いてすぐに机の下から立ち上がって、他の生徒たちに続いて教室から廊下に急いで飛び出した。避難の移動を始めてすぐに、先生を先頭に早足で廊下を歩きながら、ふとさっきの影のことが気になって教室の方を振り返ってみたのだが、特にそこには変わった様子は見られない。ぼくはすぐに先生の方に向きなおって、今さっき教室の隅にいたものについて首をひねった。なにかおかしな勘違いでもしたのだろうかとも思ったのだが、確かにぼくの目には、何かがそこにいたように見えた。

 

そんなことを何かの夢のようにぼんやりと考えながら、ふと、先を行く先生の頭のあたりに目をやると、先生のちょうど真上の廊下の天井にさっきの影がいて、やはり天井に逆さになって足を付けていて、ぼくたちが避難するのと同じように、廊下の端にある下駄箱に向けてスタスタと歩いている。

 

ぼくはギョッとして「わあっ!!!」と大きな声を上げて立ち止まってしまう。

 

「なんですか?吉田くん、避難訓練ですよ、おしゃべりをしてたらだめでしょ。」

 

ぼくの声に反応して先生が立ち止まって振り返ったので、それに続いていた他の生徒たちも立ち止まってぼくの方に振り返った。すると何故か、先生の頭の真上の天井に逆さになって歩いていた影もまた立ち止まって、ゆっくりとぼくの方に振り返った。顔がモヤモヤとしていてよくわからないのだが、おそらくは、先生や他の生徒たちと同様に、ぼくの方を見つめていたと思う。

 

ぼくは先生にそのことを言おうと思って、その影に指を刺そうとしたのだが、何かの虫の知らせのような咄嗟の判断で、何か指を刺してはいけないような気がして、影のことは口に出さず、振り上げかけた掌をギュッと握りしめて、「はい・・・。」とだけ言った。

 

先生と生徒たちが再び前に向きなおって歩き出すと、その天井の影もまた前に向きなおって、歩きだした。

 

下駄箱に到着したぼくたちに対して、先生が立ち止まって、「靴には履き替えずに、上履きのまま避難します。」という注意を促している時、その影は下駄箱のある空間の天井の隅で四つん這いになって、やはり蜘蛛が這いまわるようにしてカサカサと蠢いていた。

 

ぼくも含めて他の生徒が上履きのまま外に出て整列すると、先生が「じゃあ、校庭に向かいますよ。」と言って再び歩き出した。ぼくはやはりあの影が気になって仕方がなくて、歩きながら下駄箱の入口付近を振り返って見ると、そこにはあの影が今度は床に四つん這いになって、じっと動かずにこちらを見ているようだったが、次の瞬間ものすごい勢いでこちらに四足のまま向かってくるのが見えた。ぼくはその瞬間心臓がギュッと掴まれたような息苦しさを感じて、なにか本能的に逃げなければいけないという衝動にかられて、前に向きなおって駆け出そうとしてしまい、思わず前を歩いていた内山くんの足を踏みつけてぶつかってしまう。

 

「イテッ!なんだよ、ヨッシー足踏むなよっ!」

 

「あっ!、ごめんごめん・・・。」

 

「こらっ、おしゃべりしないで避難しなさいって言ったでしょ。」

 

ぼくはその時、まるで寒さに凍えるようにして、体をガチガチに強張らせて、前は向かずに自分の足元の地面だけを凝視して歩きながら、いつあの影が後ろから覆いかぶさってくるかもしれないということばかり考えていた。すると突然ぼくの体の横を、なにか異様な黒い威圧感のようなものがビュウと音でも鳴らしながら走り過ぎてゆく感覚があり、ハッと思って目をあげると、先生の歩く先に見える校庭の土の上を、あの影が四足になって、ものすごい速さで駆けてゆくのが見えた。そしてその影が一瞬、「ギャアアアッ!!!」という、大きな鳥が発狂でもしたかのような叫び声をあげるのがぼくの耳に響いた気がした。

 

先生も他の生徒たちも、その叫び声があがったのと同時に、ビクンと身を震わせて不可解な顔で辺りを見回した。

 

おそらくその声が聞こえたのは、ぼくだけではなかったのだと思う。

 

影はそのまま校庭を駆け抜け、校庭の端にある、おそらくはその時使用中だった体育館の半分開いたままの扉の中にスルリと入り込んで、見えなくなってしまった。

 

ぼくの通っていた小学校の木造校舎の天井には、いたるところに無数の人の足跡のようなシミが付いていた。それは学校のすべての生徒が知っていたことだし、校長先生や教頭先生も含め、すべての先生も、もちろん知っていた。けれど誰もそのことには何故か触れなかった。

 

もしかしたらそれは触れなかったのではなく、そのことを聞いたり話したりした記憶が、外的な要因で、あるいは意図的に何かの存在によって、消されてしまっているんじゃないのだろうかと、今では思う。何かそれは、人が触れてはいけないものの痕跡であり、あるいはもしかしたら、そういう種類のものは、それこそどこにでも存在するのかもしれない。

 

人が、それを見ることは出来ても、それが一体何なのかということを、それを理解したり記憶したりすることを、何者かに妨害されているとしたら。

 

ただぼくは、今でもそのことを覚えているし、あの影のこともまるで昨日の出来事のように、明確な映像とともに、生々しいざわめきとともに、しっかりと記憶している。しかしその代わりに、ぼくはあの六年間のことを、それ以外のほとんどのことを、忘れてしまっている。そこには、あるいは何か、ぼくが留めているその不可解な記憶の代償に、他のすべての記憶を失ってしまったというような、黒々と渦巻く闇のような理由が存在するのかもしれない。

 

そんな風にして、ぼくがその小学校にいた六年間で覚えているのは、その防災訓練の日の出来事と、天井に付いた無数の足跡のことと、そうだ、そういえばあともうひとつ、あの影が逃げ込むようにして消えていった体育館の天井に、歪な形をした奇妙な穴がポッカリと空いていたことも、ぼくは覚えている。

 

そしてその体育館の穴のことも、誰もが知っている事実であったにも関わらず、一切誰も口にはしなかったし、誰も皆、そのことを忘れてしまったかのようだった。

 

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月白貉