ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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雨の中の、赤い日記。

雨がやまない。

 

この数日、部屋の中が陰鬱な水気を帯びていて、気分的に耐えられなくなる。

 

 

 

気分を変えるために、図書館へ向かう。

 

数日前に日記に書いた内容を含む書籍を探すためだった。

 

目当てのものがふたつともあり、それを借りて暗い雨の中を歩いて帰宅する。

 

地方の図書館でも、書庫の中にはわりと様々な蔵書が眠っている。

 

一冊目を少し読み終えてから、もう一冊目に目を通そうとすると、二冊目の最初のページには明らかに血痕がついていた。

 

古本を好んで買うので、様々な書き込みや、何かをこぼしたようなシミはよく目にする。けれど、血痕は見たことがなかった。何かの赤いシミだと言われればそれまでだが、もうその血は赤くはないけれど、少しどす黒いけれど、明らかに血痕のようだった。二冊目に開いた本は、書庫から持ち出してもらった本だ。

 

1982年に出版されたもので、いまから約四十年ほど前の本。

 

例えば、ぼくが図書館で借りた本を読んでいる最中になにかしらの原因で血を流すことになり、その血が本に垂れて、本に血痕が残った際に、返却時にそのことをわざわざ司書に伝えるだろうかと、ふと思った。

 

たぶん、厄介だから伝えないだろう。

 

そして図書館の職員も、一ページ一ページ、もしや血が垂れていやしないだろうかと、その本を仔細に調べたりはせずに、書架に戻すのだろう。

 

けれど、その血の流れた理由を、誰かの血の訳を考える時、少しだけ背筋に波の立つ思いがした。

 

 

 

長雨で、部屋の中はカビだらけで、その後始末が憂鬱で。

 

ただ雨のやまないままに、始末をするのが躊躇われて、そのすきに部屋の中はカビに覆われてゆく。

 

この地域の湿度は、少しだけ常軌を逸する。

 

冬季はよい、湿度が多いことで、乾燥が軽減される。しかし夏季はいただけない。異常な湿度と、周囲の熱の加減で、こと梅雨の時期のカビの猛威たるや。

 

けれど結局、目に見えるカビなんてものはごくわずかで、世界はカビにまみれていて、カビの生えたものを知らずに食べていることなんて、当たり前なのに。

 

昨今のパンデミック然り、調べれば調べるだけ、感染者数は増える。

 

人々は何かしらに感染している。

 

調べないから、その詳細は知られないだけで。

 

夜になって風がやんだ。

 

起きる時間を気にしないようにするために、少し前からiPhoneの目覚ましをすべてオフにした。

無駄なストレスが無くなった。

起きるべき時間は、感覚として感じればいい。

思っていた加減に起きられなかったら、それでいい。

 

そういう、無意味な時間軸を、捨て去るべきだ。

 

もう、眠っちゃうよ。

 

もう三年くらい、誰かに「おやすみ!」って、眠る前に言っていない。

 

「おやすみ。」

 

ぼくに「おやすみ」を返す者に、我が力のおよぶ限りの、のぞむものをすべて与える。

 

まあ、大した力はないので、それも知るべし。

 

おやすみなさい。