ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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名も知れぬ廃鉱山で笑う、クレイジークリスタル日記。

この数年で、ぼくはいろんなものを捨て去る準備ができたんだろうなあ、って、時々なんだかぼんやり思う。

 

置き去りにしてきた、たくさんの蔵書とか、一時狂ったように集めていたアメリカントイとか、あとはもっと大切なものも、まだ彼らは物質として、遥か遠くに残っているはずだけれど、それを再び手元に呼び寄せたい欲求、欲望、そういうものが希薄になってきた。

 

物質的な欲は、もういらないかもって。そういうものがあればあるほど、自分が縛り付けられて、どこにもいけなくなる。

 

毎日、ある場所でホームレスらしき老人を見かける。老人っていうほど齢は重ねていないのかも知れないけれど、髪の毛や髭や、少し荒れ果てたその様子で大いに老人のように見える。

 

ただ彼は、時々散髪もしているし、スマートフォンらしきものも持っている。スーパーで買物をしている姿も見たことがある。

 

でも、雨の日も風の日も、湖岸で立ち尽くし遠くを見つめ、冬の日に、凍てつくような寒さの冬の日の早朝に、ベンチで眠っている。

 

この数年、ぼくは湖を見つめ続けるのと同じくらいの時間、彼のことを目にした。

 

彼が何を考え、何を思い、日々何を求めているのかは、わからない。けれど、なんだか、その彼にわずかながら透明感を見出すに至る。

 

透明感?

 

よくわからないけれど、少し透き通った、純粋とまではいかないにしても、いびつな水晶みたいなものかな。

 

そして彼の姿は、いまのぼくよりも、ずいぶんマシな生き方のように、思えるんだよ。

 

何度か彼に声をかけようかと思った。でも、もしかしたらそれはパンドラの箱を開けるようなものなんだろうなあって思って、やめた。

 

もう眠ろう。

 

夢が何かをこじ開ける時間を、無駄には出来ないから。