ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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23時20分の、罠日記。

日常的に文章を書かなくなって、二年ほど経つと思う。

 

あの日、いや、ある日と言おうか、心が粉々に弾け飛んで、砕け散って、いろんなことをやめてしまった。しばらくして、やめてしまったことを少しずつやりなおそうと思ってみたけれど、もとには戻らなかった。もとのようには、とうてい戻せなかった。だからゼロから何かを構築する日々だった気がする。

 

そういう日常が、ぼくに何をもたらしているのかは、今のところよくわからない。

 

もとに戻す必要があるのかも、ほんとうは、よく、わからない。つまりたぶん、もとに戻す必要なんか、砂粒ほども、砂粒の何十億分の一ほども、ないのかもしれない。

 

歌わなくなると歌えなくなり、泳がなくなると泳げなくなるとか、あるようだ。確かに、歌わなくなったので確実に歌は下手になった気がする。泳がなくなったので、泳ぎも、たぶん昔のようには泳げなくなった気がする。

 

自転車とかスキーとかは、ブランクに関係ないと聞いたことがあるけれど、それも果たして。自転車にもずっと乗っていないし、スキーなんてもう、ずいぶん。だからわからない。

 

そして、この頃さ、なんだかそういう過去から追いかけてくる腐りかけた時間みたいな存在にちょっと不安を覚えるけれど、そんなこと仕方がねえ。続けていても、続けていなくても、そういうことには関係なく、圧倒的に出来なくなることはある。ぜんぶいずれは腐って、朽ちてなくなる。

 

欲の幅みたいな、欲の縦と横みたいな、欲の奥行きみたいなものは、今でも限りなくあるけれど、例えば食欲とかさ、性欲とかさ、ただ肉体に関わる事柄には、この物質的な肉体には時間の限界、リミットみたいな、制限みたいなものが、あるらしいからさ。

 

もっとたくさん食べたいとか、もっとセックスしたいとか、そういう欲はいまのところでも、わりと尽きない。ある意味では健全なのかもしれない。

 

毎日眠りから目を覚まし、軽い筋トレをこなし、仕事に向かい、日が落ちると家路につき、軽い筋トレをこなし、ずいぶん時間をかけて食事を作り、クソみたいなジャンクワインを飲みながら、映画を観ながらの、少し長い食事。そしてまた眠りにつく。

 

眠る前に毎日、日々の隙間に思い描いた物語が頭の中にあふれかえる。けれど、そこで言葉にしないがために、朝、目を覚ますと、消えてしまったような気がする。眠っている間にみた夢に混じり合って、増幅して壮大になった物語は、その挙げ句に、目を覚ます直前に無に帰す、そんな感覚がある。

 

朝、玄関を出る。

 

玄関のモニター付きインターフォンが蜘蛛の巣に覆われていて、その蜘蛛の巣に大量の羽虫がとらわれているのだが、巣をはった主がもうそこにはいないらしく、我が家のインターホンは虫の屍でコーティングされた呪物みたいな様相を呈している。

 

ここしばらく来訪者がないので、室内からみるその光景が想像を超えているようなきがして、その光景が室内のモニターからどんなふうに映し出されるのだろうと思って、今ふと思い立ってインターフォンの通話ボタンを押してみた。

 

玄関の前の映像がモニターに映し出される。

 

ザーザーと無音のノイズが響いている。

 

モニターには、おかしな、少し歪んだ笑みを浮かべた少年が立っていて、小刻みにブルブルと体を震わせていた。そして、モニターが起動するのとほぼ同時に、驚いたように走り去っていった。

 

明日の朝、あの蜘蛛の巣を媒介とした羽虫のコーティングを剥がさなければいけないと咄嗟に思った。今それをしてもいいのだけれど、日の落ちた今、暗闇に包まれた玄関でのそれは躊躇われた。

 

たぶん、あの少年が、少年のようなものが走り去ったのは、ぼくをおびき寄せる罠だと思ったからだ。