ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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サイハテ

「ねえ、」

 

10月に入っても、まだまだ夏の残照みたいなものが漂うある日、大きなおおきな嵐がゆっくりと走り去ったある日、その背後に柔らかい冷気をもたらした。

 

「ねえ、ハクトはさ、ありがとうって言わない人だよね。」

 

「えっ?」

 

リサが左と右の両掌で交互にその反対側の自分の両手首を何度も擦りながら、少し笑ってそう言った。

 

「ありがとうって、い、い、ま、せ、ん、よね、あなた。」

 

ぼくがその言葉を受けてわずかに首を傾げると、自分の体のどこかからおかしな音が響いた。

 

「言うよ。」

 

リサは誰にも勘付かれないようにして、透明な笑みを浮かべる。

 

「うん、知ってる、言うよ。」

 

「うん、でもさ、必要ないと思った時には言わないよ。いや、必要だと感じた時にしか使わない、だって・・・、なにかに怒ってるの?おれに?」

 

「ちがうの、いつもの病気が出てるだけ。」

 

ぼくは右手でゆっくりとリサの鼻をつまむ。

 

「仕事場でね、みんなが、ありがとうって、ありがとう、ありがとう、ありがとうってさ、そればかり言うの。誰かの行動に、誰かの行為に、そればかり言うの。それはさ、"はい"とか"いいえ"で済むことにも、それでいいのに、ありがとうって言うの。激しく間違ったことにさえ、ありがとうって、声を掛けるの。」

 

「うん。」

 

「バカみたいじゃない?狂ってない?おかしいのはわたし?」

 

ぼくはもう一度、リサの鼻をさっきより強くつまむ。

 

「ありがとうって言葉って、どういう意味なの?」

 

「どういう意味だと思うの、きみは?」

 

「それは、わたしのその言葉の用途を聞いてるわけ?」

 

「そうかもね。」

 

「わたしはね、ハクトと一緒に暮らすまではね、たぶん、いまわたしが怒ってる人たちみたいな使い方をしてたと、思うの。"はい"とか"いいえ"とか、好きとか嫌いとか、ぜんぶが、ありがとうだったのかもしれないって、最近思ったの。でもさ、あなたは、ほとんど、ありがとうって言わない。」

 

「言うよ。」

 

「知ってるよ!言うの、ありがとうは言うけれど、それはいつ言うのかなってさ・・・」

 

リサがドラゴンのブレスのようなため息をついた。

 

「ほんとうは、言葉で言わなくても、ありがとうは伝わる。少し時間はかかるかもしれないけれど、いや、かかるけれど、誰かへのありがとうは、言葉がなくてもきっと伝わる。だからおれは無駄にありがとうなんて言わない。押し付けがましいじゃん。私はあなたに感謝の意を表しているから受け入れよ!みたいじゃん、そういうのが嫌いなだけだよ。」

 

「そっか・・・」

 

「ありがとうって言葉を多用する人間を、おれは信じない。その語源はよく知らないけれど、有難きことに対しての畏敬の念じゃないのかな、ありがとうって。な〜んてこといってるから、周囲から冷ややかな目で見られる。あいつはまともにありがとうも言えないってね、でもまともにありがとうが言えてないのは、おまえらだろって。こんな意見でもいい?もしかしたら、きみと気が合うかもね。」

 

リサが穏やかな笑みを浮かべた。

 

「ありがとう、って、今言うべき?」

 

「さあ、どうかな。もうちょっと、ずっとずっともっと先の、見えない未来にいうべきかな?おれなら、そうするかもね」