ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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無知の鏡像

「ねえ、この家、鏡がないんだね。」

 

そう言いながら、ミエはぼくの額にデコピンをした。

 

「冗談のデコピンにしては、本気過ぎだろ、痛いよ。」

 

「ごめんちん。」

 

いまこの部屋を取り囲む世界からは、巨大なテレビから流れ出した放送終了後の真夜中のノイズのような、激しい雨音が途切れなくぼくの、そしてたぶんミエの鼓膜をも震わしている。

 

「鏡ないなんて、ちょっとすごいね。どうやって身支度するわけ?」

 

「うん・・・、鏡なくたって色んな所に映るじゃん、窓とか、パソコンのモニタとか、そういうのを見るよ。」

 

「そんなんでいいんだ、そのわりに、きみいつもきれいだよね。」

 

「きれい・・・、きれいかな?」

 

「きれいっていうか、普通に清潔感ある。顔に泥がついてることもないし、耳から血が出てることもないしね、なかなかいいじゃんって思う。」

 

「そうですか、顔に泥か・・、ミエの清潔感の基準はよくわかんないけど、最低限自分が心地よいくらいは、清潔にしなきゃと、そうおもってるけど。」

 

「何か自らの汚いものを隠すみたいに変な匂いのする香料をバケツでかぶるようにしてベタ塗りもしてないし、だから時々少しだけ汗臭い時はあるけど、そういうことを隠さないこともいいと思っているのだよ、わたくしはさ。」

 

「左様でございますか、おれ基本的に移動が徒歩だからさ、夏は常に汗臭いんだよ、それは自分でも知り申し候。」

 

ミエが再びぼくの額にデコピンをする。

 

「学習だ、」

 

「そうだよ、冗談のデコピンを学習したの巻。痛くないでしょ、でもそのかわりに、爪の先に毒を塗ったけどね。」

 

ぼくは無意識に額の毒を拭うようにして、そこを撫で回す。

 

「大丈夫、すぐには死なないよ。」

 

「すぐにはね・・・、」

 

「きみ、鏡が嫌いなの?」

 

「鏡か、そうだね、好きじゃない。」

 

「嫌いなのかって聞いてますよ、わたくしは。」

 

「あっ・・・、うん、嫌いです。」

 

ミエがぼくの額ではなく、なにもない空間にデコピンを連打している。

 

「なんで?」

 

「なぜ嫌いなのかを、きみは聞きたいわけだね。」

 

「うん、そういう話は、好きさ。」

 

「そっか、えっとさ・・・、あまり話したくないんだけれど、子供の頃、実家でちょっと、怖い思いをしてさ。」

 

「鏡でか、鏡ってさ、あっ、ごめん、話の腰をひん曲げるところだった。話の続きをどうぞ、先生。」

 

「うん、べつにおもしろい話じゃ、ないよ。」

 

「うん、怖い話でしょ。」

 

「こわいかなあ、まあいいや、簡潔に話そう。」

 

「うん、話してよ。」

 

「おれの祖母のお母さんの部屋が、まだおれが幼い頃、自宅の敷地の奥まったところにあったんだ。離れみたいな感じで、どの部屋ともつながっていない、ちょっと隔離されたみたいな、なんていうか今のプレハブみたいな小さな部屋でさ、おれが物心ついたころには、もう祖母のお母さんは死んじゃってていなくて、だけれどずいぶん長い間、その部屋はそのまま、祖母のお母さんが使っていた時のまま、放置されていたんだ。」

 

「その部屋には、大きな鏡があった、って話だっ!」

 

「いや、部屋に鏡はなかった。」

 

「ごめん、話を続けて・・・、」

 

「鏡はなかったんだけれど、おれはその部屋の奥に鏡があるとばかり思っていた。なんだかもうすごく歪んでいて、くすんでくもった鏡が、ずっと置いてあると思っていた。」

 

「鏡はなかったの?」

 

「鏡がなかったことを知ったのは、ずっと後で、その部屋を取り壊すときのことだった。」

 

「なんで鏡があると思ってたの?」

 

「その部屋には天井裏みたいな収納スペースがあって、そこにさ、例えば大人数で宴会なんかする時に使うための食器がたくさん仕舞われてたんだよ。昔はさ、葬式だったり、祝い事だったり、ぜんぶ自宅でしてたでしょ、だからそういう時のための食器が山程どの家庭にもあったんだよ。」

 

「そっか、うん。」

 

「まだおれが幼い頃も、そんな時代の欠片みたいなものは残っていてさ、時々家に大人数の人が集まって来た時なんかは、その部屋から食器を運び出すのを手伝わされたんだ。」

 

「うん。」

 

「運び出すのはいつも、料理の準備が整いだす夕暮れ時でさ、その部屋は古ぼけた裸電球がひとつ吊り下がってるくらいだから、その時間帯でもかなり薄暗いんだよ。」

 

“ピンポーン”

 

その時唐突に、部屋のインターフォンのチャイムが鳴り響く。

 

ミエが体に電気でも走ったように身を震わす。

 

「な、なんだよ、まじかよ、ビビるわっ・・・、」

 

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