ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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きょうは八宝菜は作らない、けれど地獄の13丁目にある映画館で足止めを喰らう日記。

毎日定期的にウェブログを書かなくなって、もうおそらく八ヶ月ほどは経過したに違いない。

 

八方広がりの八ヶ月であり、同時に八方塞がりの八ヶ月。

 

物事なんてものは常に表裏一体で、流れ行く日々は状況が如何にあれど、幸福でもあり、不幸でもある。けれどもごく個人的な気分を吐き出せば、大いに苦しい時間だったことには違いない。イギリスの詩人ジョン・ミルトン(John Milton)が『失楽園』(Paradise Lost)の中で綴った言葉のそれだった。

 

"Long is the way, And Hard, that out of hell leads up to Light"

地獄より光明に至る道は長く険しい

 

これはデヴィッド・フィンチャー(David Andrew Leo Fincher)の『セブン』(Seven)の中でも触れられている有名な言葉だ。確かリドリー・スコット(Sir Ridley Scott)の『エイリアン・コヴェナント』(Alien: Covenant)の公開前のキャッチにも同様の言葉が使われていたが、この引用に違いない。

 

 

まだ光明には至らない。

 

あの日、大きなものを失い、まさに藻掻き苦しんだ日々。未だに両手の指の間には大量の藻が巻き付いて離れる気配はない。指先どころか全身藻にまみれて、さながら80年代のホラー映画で湖やら沼に潜んでいるクリーチャーの如く、鏡を見るたびに苦しさがひっくり返ってその自らの姿に大爆笑してしまわん勢い、まだまだ藻掻き続けている。

 

知り合いの小説家は、ぼくがある場所(個人的なFacebook)に吐き出しまくった文章を読み続けてくれた上で、「苦しみから抜け出そうと藻掻いて藻掻いて、すごく生きてるって感じがする!」というコメントをくれた。内心は自ら命を断つんじゃないのかと心配していたそうだが。

 

さて、きょうは久しぶりに穏やかな時間が訪れたので、日記を綴ることにした。

 

朝から部屋の掃除をして、玄米を精米した糠をぬか床に混ぜ込み、きゅうりと大根を漬け、昆布と冷凍してある山椒の実を投入した。米を研ぎ、冷凍庫から凍らせた豆腐と鳥のひき肉を取り出し、ラジオの電源に指をかける。

 

今流れているのはアデル(Adele)、すいぶん前に観たベストヒットUSA小林克也が「アデール」と発音していたので、ぼくはその日からもちろん日本語読みでも「アデール」と呼んでいるが、カタカナ表記は「アデル」らしい。日本におけるカタカナの人名表記なんて発音を無視したいい加減なもので、なのにどれが正しいかなんて論議を持ち込む輩がいて、まったくもってくだらない。ぼくはかつてアメリカに長期滞在した際、どうやらアメリカ人には発音しづらい名前だったらしく、結局最後まで、いわゆる"ちゃんとした"発音では名を呼ばれることはなかったが、なんだかそれはそれで楽しかった。

 

あの日からの長い間、毎晩毎晩、糞ジャンクなワインを大量に飲み、トマトソースのスパゲティばかり食べている気がするので、きょうは久しぶりにまともな和食を作ろう。

 

けれどその前に、今日は映画をたくさん鑑賞しようと持って、きのうDVDを借りてきた。

 

ラヴ・ディアス(Lav Diaz)の『立ち去った女』(Ang Babaeng Humayo、The Woman Who Left)、ゲイブ・クリンガー(Gabe Klinger)の『ポルト』(Porto)、ポール・ヴァーホーヴェン(Paul Verhoeven)の『エル/ELLE』(Elle)、ジョーダン・ピール(Jordan Peele)の『ゲット・アウト』(Get Out)。

 

立ち去った女 [Blu-ray]

立ち去った女 [Blu-ray]

 
ポルト Blu-ray

ポルト Blu-ray

 
エル ELLE [Blu-ray]

エル ELLE [Blu-ray]

 

 

やはり日記を書くにしても、本調子じゃないぜ、コンチクショウ。でもまあいいさ、今この瞬間を、大切にしよう。

 

今この瞬間に、自分が何を考えて、何を成し得ているのか、それ以外には、ほとんど意味なんてないのだから。過去は忘れてしまうし、未来なんてわからないし。時間というものを概念化して数値化している限りは、鳥のようには飛べないし、魚のようには泳げない。鳥や魚が人を見て逃げ回るのは、決してとらわれて食われるのを恐れているわけではなく、人間が振り回す時間の渦に巻き込まれるのを拒んでいるからだ、そうでしょ、きっと。

 

Auf Wiedersehen.

 

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