ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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青い山へ、その先の青い山へ日記。

部屋の窓を開け放って、映画を流しながらごはんの準備をしよう。

 

何も予定のないひとりきりの休日だけれど、そしてしばらくはそんな休日や日曜日があてもなく続くかも知れないけれど、それでもぼくは、前に進んでゆく。

 

いまこの瞬間、部屋の中をゆっくりと静かに走り回る風が心地よい。窓から見える柿の木の若葉がキラキラと微笑んでいるのが見える。平和で穏やかで、少し、いやかなり孤独な休日の月曜日だ。

 

このウェブログを楽しみにして読んでくれているかもしれない数少ない奇特な誰かへ、もし気が向いたなら、そんな休日や日曜日に、ぼくの家に遊びにおいでよ。とっておきのごはんと、おいしいワインを準備して、小説や映画や、昨日見た夢や誰も知らない未来の話を用意して、待っているよ。

 

いま部屋の中で流れているのは、ジュゼッペ・トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』、ぼくの大好きな映画のひとつだ。

 

さて、きょうはゆっくりと時間をかけてごはんをつくって、午後のまだ早くからジャンクなワインをガブガブ、いや昨日買ってきたちょっといいワインを飲みながら、孤独な時間を静かに過ごそう。

 

ある種類の傷は、たぶん一生癒えないし、苦しみはこれからしばらく、まだまだ続くだろう。それでも、痛くても苦しくても、先に進むことには少しだけ、意味があるだろう。無理矢理に無鉄砲に進むつもりはないけれど、行けるところまでは行こう。

 

いや、あるいは、無理矢理に無鉄砲に進むかもしれないけれど。

 

ぼくの能力は、誰かが行けない場所に行けることだから。

 

午前中ジョギングをしていて、山頭火の句を、たまたま路傍で目にした。ぼくが好きな句だった。 この句の真意はよく知らないが、ぼくの生き方みたいで、すごく好きだ。

 

分け入っても 分け入っても 青い山 

種田山頭火

 

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月白貉