ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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第十三章 - 闇の中 -『南にある黒い町』

前回の話第十二章 - 眠り

 

猿神はおもむろにぼくのスニーカーから足を下ろし、一瞬だけぼくの顔をチラリと見上げると、鳥居の下をゆっくりとくぐり抜け、真っ白い尻尾を揺らしながらピョンピョンと暗がりに続く神社の石段をのぼり始める。

 

そして、鳥居脇にある防犯灯の光が及ばない闇の中に石段が溶け込むようにして見えなくなる所までのぼった猿神は、ぼくの方に首だけを振り返り「ついてこい。」とでも言わんばかりに歯をむき出しにして口を大きく開いてから、暗闇の中へと続く石段を駆け上がっていった。

 

ぼくは慌てて、闇の先に姿を消してしまった猿神の後を追いかける。

 

防犯灯が放つ弱々しい光の帯が届き得ないその先は、黒色をした濃密な空気がむせ返るほど充満していた。ぼくはその真っ暗闇の中を、まるで盲目の老人が歩くような格好をして、一歩一歩足先で石段を探りながら、闇をかき分けて上を目指した。

 

石段をのぼり終えたぼくの前に、黒一色で塗りつぶされた荒れ果てた神社の境内が浮かび上がる。それはぼくの見知った廃神社の境内とはまったく違う場所のように見えた。境内の奥にある半ば崩れかけた社の扉の前に、白猫の姿が小さなロウソクのようにしてぼんやりと灯っていた。猿神は、石段をのぼりきって境内の闇の中を見回すぼくの方をじっと動かずにしばらく見つめていたが、ぼくが社に向けて一歩を踏み出したのを合図とするようにして、社の正面の引き戸を前足で器用に開き、中へと入っていってしまった。

 

ーーーーーーー

 

わずかに開かれた社の戸の隙間から中を覗き込んだ瞬間、ぼくを再び激しい吐き気と便意が襲う。

 

それはあの異形の者たちが身に迫った時の感覚と同一の悍ましい闇の気配だった。ぼくは無意識に後ずさりを始めようとしている体を必死に押しとどめ、呼吸を正しながらその闇の中に目を向ける。

 

中は純粋な闇だった。

 

ぼくは塩田と何度もこの神社を訪れ、日の光が空にある内には社の中を覗き込んだことも数知れないほどあった。そこはチリとホコリとカビと蜘蛛の巣に塗れた、狭いがらんどうになっているはずだった。しかし今ぼくの目の前には、すぐ左右にあるはずの板壁も、正面にあるはずの奥へと続く扉のようなものもなくなっていた。先の見えない広大な闇がそこには広がっていた。

 

ふいに周囲の空気がさらに重苦しくぼくの体にのしかかり、ぼくが目を向けている正面の闇のずっと奥に、社の外観から考えれば建物を通り抜けて外に出てしまっているであろうずっと先の闇の中に、ぼんやりとしたオレンジ色の明かりがボンっという音でもたてるかのようにして灯り揺らめいた。その明かりに照らされた周囲には、明かりを三角形に取り囲むようにして三人の老人らしき人影が胡座をかき、それぞれに違った形に背中を歪によじ曲げながら微動だにせず眠りこけたようにして座っていた。

 

そのさらに奥に、明かりに照らされて白く毛を光らせる猿神の後ろ姿が見えた。

 

「はいれ。」

 

今ぼくの体には触れていないはずの猿神の声が、ぼくの頭の中に地鳴りのように響き渡る。

 

しかしぼくの動物的な本能のようなものが、社の中から放たれる凶々しく殺気立った気配に対して強い警戒を示しはじめ、もう一人の自分が耳元でぼくに囁きかける。

 

「中に入っちゃ駄目だ、この中、何かがおかしい、あの団地の時と同じだ、あの坂の上の時と同じ臭いがする。ラゴは神社がゴールだとは言ったけど、社の中に入れとは言わなかったよ。」

 

「でも、ラゴは、猿神の指示に従えって、」

 

「あの白猫、ほんとうにラゴの助っ人の猿神なのか?さっき神社に向けて駆けてくる時の、あの雰囲気、一瞬おかしかったよ。気付いただろ?あの坂の上で一度体から離れて、その後どうなったのか、見てないからさ、よくわからないじゃないか。」

 

「じゃあ、あの白猫の姿をしてるのが猿神じゃないなら、一体何なんだよ?」

 

「そんなこと、おれにもわかんないよ、でも絶対におかしい、この中には入っちゃ駄目だ!」

 

その自分自身との対話が、社の中に足を踏みれることをしばらくの間躊躇させていた。

 

すると、闇の奥でぼくに背を向けている猿神がくるりと振り返り、三人の人影とその中心に灯る明かりを大きく迂回して避けるようにしながら、ぼくの方に向けて駆け寄ってきた。そしてぼくから少し距離をおいた場所にちょこんと座り込むと、やや首を下向き加減にしながら上目遣いで、ぼくの方に睨みつけるような眼光を突き刺してきた。

 

「怖いか坊主、中に入るのが。」

 

ぼくは正直に首を縦に振った。

 

「がっはっはっはっはっ!」

 

猿神はぼくの頭が張り裂けんばかりに笑った。目の前の白猫もその笑い声に合わせるようにして、鋭い歯をギラギラさせながら口を広げた。

 

「あの婆様とは契約を交わしている。その条件としてわしが担うべきことは、ふたつ。追手を潰すこと、そして、おまえを守護すること、期限は明日の日の出までだがな。もしその契約がなければ、この場所に自ら足を踏み入れるのは、愚かな行為だ。おまえが感じているように、ここはおまえにとって身が休まるような場所では決してない。すなわち、中に入ることを怖れているおまえは、賢明だというわけだ。しかし、今は別だ、わしが招き入れた。おまえに危害は及ばん。はいれ。はいって腰を下ろせ。」

 

ぼくはゆっくりと一度だけうなずきながら社の中に足を踏み入れ、背後の引き戸を閉めた。戸を閉めた瞬間、さらなる濃い闇が背後から大波のようにしてぼくの体に押し寄せ周囲を満たしてゆき、ぼくはここで闇に溺れて命を落としてしまうのではないのかという強烈な感覚に襲われる。

 

「ここだ、ここに腰を下ろせ。」

 

猿神が自分の座っている場所で右の前足をトントンと上下させる。ぼくはその言葉に従い、猿神の手前にある真っ暗で何も見えない床に腰を下ろして胡座をかく。

 

「ただし、今わしがいる一線を越えて先には進むな、まだ命が惜しければな。」

 

奥に座っている三人の人影が、細い管から吹き出す蒸気のような湿った笑い声をあげたような気がした。

 

第十三章 - 闇の中 -『南にある黒い町』

 

 

 

鳥居 木製朱塗 玉垣無6寸
 

 

月白貉