部屋の中に何かが祀られている、本当はコワい格安賃貸物件。
「えっ、1ヶ月3500円、嘘でしょ?」
私が妻のモミとの別居を余儀なくされたのは、まだ梅雨もあけ切らない7月はじめのことだった。最終的に離婚という決断をするかしないかを判断する前に、しばらく離れて暮らす時間を持つべきだという提案を出したのはモミでも私でもなく、2人の共通の知人である大学教授のイグチさんだった。
結婚して一緒に暮らしていれば相手の欠点や汚らしい部分なんてものは宇宙的な数にのぼるほど見えてくる。それに比べれば互いへの愛なんてものは実にわずかな数でしかない。けれどそれは数で比べるような事柄ではなく、あるいは質の問題でもなく、まったく次元の違う話なのだとイグチさんは言った。ひとつの大好物のイチゴを食べるために、大嫌いなキュウリを1000本食べなければいけないのかという話ではなく、2人を結びつけている本質的な闇と光を改めて互いが別々に探し求める時間を持つべき時なのだと、イグチさんは付け加えた。
その話し合いが持たれた2週間後から、私の一時的な賃貸アパートメント暮らしがはじまった。
「はい、嘘ではないんです。いささか築年数の経過した物件ですが、外装はしっかりとしたコンクリートですし、内装や水回りもきちんと管理されています。近隣には大きな道路もありませんし、周囲は閑静な住宅地、建物の裏手は神社の御神域になっている森ですので、夜間の騒音などはもちろんない好立地です。自然が豊かなため多少虫などは多いかもしれませんが、特別に虫が嫌いでなければ問題はないかと思います。ちなみにこの部屋は2階の角部屋ですが、隣の部屋に数年前に旦那さんを亡くされた高齢になるオーナー様が1人住まいをされているのみで、他の部屋は空き室になっています。」
「そんないい条件の部屋なのに、異常なほど破格の家賃ということは、もしかして?」
「はい、お伝えしなければならないことがございまして、」
「ああ、やはり・・・、いわゆる事故物件とかいうものですか?」
「いえ、そのようなものとは若干違うのですが、今まで話を聞かれた方は、私の知る限りではそのほとんどが入居をおやめになりました。つまり今までは、ほぼオーナー様ご夫婦のみで使用されてきた物件ですので、まあご自宅のようなものだったとでも言えますね。私の方からは家賃や環境を踏まえても、特別におススメ出来る物件とは言い難いのですが、話、お聞きになりますか?」
「せっかくなので、一応聞いてみましょう。」
「はい、いまお話にも出ましたオーナー様がちょっと特別な信仰をお持ちの方でして、このアパートメントを建てるにあたり各部屋に特別な空間を設けておられるのです。あちらの風呂場の脱衣所の入り口とトイレの戸の間の壁に少しだけスペースがありますでしょう。先ほどは説明を省きましたが、よく御覧ください。床ギリギリの所の壁にちょっと特殊な形をした鍵穴が付いているのがおわかりかと思います。」
「あ、本当だ、ずいぶん低い位置にあるから言われないと気付かないし、言われても鍵穴には到底見えませんね。」
「はい、あちらを開けると奥にスペースがありまして、そこはオーナー様が管理されています。入居者の方が勝手に開けることは出来ませんし、物置などに使用することもお断りさせていただいております。」
「信仰が云々ということは、なにか祭壇のようなものがあの中にあるんですか?」
「はい、おっしゃる通りのようです。私は詳しいことは存じませんし、中を見たこともありません。ただ、一月に一度だけ、オーナー様の指定した時間帯にですね、入居者の方には一時間ほどお部屋を出ていただいて、オーナー様がお部屋に入ってあの扉を開けて儀式のようなことをされるそうです。」
「儀式かあ・・・。」
「はい、考え方によっては一ヶ月に一度のお部屋の定期メンテナンスがなされると思えばさほどのことはないとは思うのですが、やはりこの話を聞かれた方は、儀式などと言うと何かの怪しげな宗教団体などと結びついてしまうようで、大きな抵抗を感じるようです。」
「なるほどねえ、ちなみにお聞きしますが、オーナーさんが何かの宗教団体に所属しているとか、主催しているとかいう、そういうことなんですか?」
「いえ、私が直接オーナー様からお聞きした限りでは、特にそのようなことはないようです。オーナー様のご実家で受け継がれてきた土着の民俗信仰を絶やさぬようにと、ご実家を離れた今でもおふたりで、いや、いまはおひとりになられましたが、こちらで続けているとのことでした。ただ、家賃がお安い理由の実際のところは、オーナー様のお考えとして、このアパートメントはそもそも人に貸すために建てたのではなく、ある種の祭祀場的な建造物として建てたそうです。個別に人が暮らせるスペースを有しているのはアパートメントを想定してのことではなく、その信仰と儀式に関係があると聞いております。ですので、誰かが住みたければただでもかまわないと言っておられました。ただ諸事情あって表向きにはアパートメントとされています。ですからこの家賃設定も、固定資産税の足しにでもなればということだと理解しております。ここだけの話ですが、オーナー様は随分な資産家であられるということなので、厳密にはこの物件でのアパート経営云々ということは考えておられないようです。ただ当社の経営者がこちらのオーナー様のとの古い付き合いがあるようでして、そのご縁もあり一応物件情報としてご紹介させていただいているという経緯でございます。」
「へ〜、なるほど、希少な物件といえば希少ですねえ。わかりました。二、三日検討させて頂いてもよろしいですか?」
「はい、もちろん問題ございません。値段が値段だけに、それを見ただけの問い合わせは非常に多いのですが、まあいまお話した通りですので、当分の間お部屋が埋まるということはないと思いますので、ははははは。」
担当者のサカザキという中年男性は、そう言って上品な笑い声を上げた。
月白貉