ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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空間にいるぼくと蜘蛛と、日記。

いつもは机に向かって椅子に座ってウェブログを更新しているが、きょうは久しぶりに小さなテーブルを引っ張り出してきて、疑似畳の床に胡座をかいてこの日記を綴っている。窓から入ってくる風が何度も何度も背中を叩き、その手がひんやりと冷たくて心地よい。

 

いろんなことをすべて捨てて、本当に、物も仕事も恋人もすべて捨て去って、長く暮らした都会を離れて、見知らぬ土地にやって来てしばらく経つが、未だにほとんど何も手に入れられないまま、あるいは今でも少しずつ何かを失い続けながら、あてもなく荒野を彷徨うがごとくの日々を過ごしている。

 

だから時々、まったく漠然とした、大きな津波のような不安が押し寄せることがある。

 

けれどそういう類の不安の波は結局、ぼくが生まれる前から、ずっとずっと昔から押し寄せていたはずだろう。

 

まだまだ色々なものに未練があって、物が欲しかったり、明日が知りたかったり、誰かによく思われたかったりするけれど、数年前に比べたら、そういうくだらない安心には頓着がなくなった。些細な安心を得るためには、必ずその倍くらいの不安が付きまとってくる。そんな余計な不安に苛まれるくらいなら、茫漠たる大波のような不安に飲み込まれて海の藻屑か泡粒になったほうが、どんなにか素晴らしいだろうと思うようになった。

 

ふいに吹き抜ける風が清々しかったり、50円玉を拾ってほくそ笑んだり、空が青すぎることに興奮したり、恐怖の物語を夢想して鳥肌を立てたり、ホラー映画を貪ってワクワクしたり、あとは眠るか酒を飲むかして空間を漂っている。

 

そんな空間がなくなるべくしてなくなったのなら、それで終いでいいだろう。

 

必要以上に無理矢理に新たな空間をこじ開けたり、無数の人々をなぎ倒して皆殺しにしてまで空間を確保したりしなくたって、この縮みゆく小さな空間でもう十分だろう。

 

目の前の壁を小さな蜘蛛が這っていて、ちょっとだけ止まってぼくを見た気がした。

 

「おはよう、壁を這う小さな蜘蛛。」

 

「おはよう、壁を這う小さな蜘蛛。」

 

大事なことは二度言う、という、今この刹那だけのルール。

 

おはよう。

 

空間にいるぼくと蜘蛛と、日記

 

 

 

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月白貉