ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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観ていて眠くなる映画こそ、素晴らしい映画である。

ある時期が訪れるまで絶対に観ることが出来なかった映画作品ってものが、今までの人生でいくつかあった。

 

そのひとつに、スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)の『2001年宇宙の旅』(2001:A Space Odyssey)がある。

 

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image source : 2001: A Space Odyssey

 

初めて鑑賞したのは、いやその時は最後まで観られなかったんだけど・・・、確か中学生くらいの頃だったんじゃないのかなあ。当時はもはやサルとモノリスのシーンあたりで眠くなっちゃってさ、早々に撃沈した覚えがある。

 

その後、ぼくは大学で映画と映像を専攻したわけなんだけれど、教えを請うたとある教授の持論として、「素晴らしい映画ほど観ていて眠くなる、つまり観ていて眠くなる作品は素晴らしい映画なのだよ。」というものがあった。すべてに当てはまることではないと思うが、確実にそういう作品はあるとぼくも思う。そしてその眠気に打ち勝った時に初めて、作品の真の素晴らしさみたいなものを痛感することになる。あるいは眠ってしまっている時点ですでに素晴らしさには到達しているのかも知れないけれど。まあすべての人がそう感じるかどうかは知らないが、ぼくはいままでわりとたくさんの映画作品を鑑賞してきた経験として、容易に受け入れることが出来た論説だった。

 

例えば、アンドレイ・タルコフスキー(Андрей Арсеньевич Тарковский、Andrei Arsenyevich Tarkovsky)の作品群などは、ここ数年でようやく、ゆっくりと力強く抱きしめられるようになった気がする。大学時代には観はじめるとすぐに、何処より降り立った眩い眠りの妖精に導かれて、大学の図書館で何度となく至福の安眠タイムを過ごしたことが懐かしく思い出される。

 

けれど、若い頃には観ることが出来なかった作品でも、歳を重ねてゆく内にある日、突然観られるようになる気がする。

 

もちろん、いまだにすっごく眠くなる作品もあるし、観終えて最高に素晴らしかったと感じる作品に限っては、鑑賞中の何処かで強力な眠りの魔法が確実に発動する。

 

あれは、いったいなんで眠くなるんだろうか?

 

子供の頃に、母親がぼくを寝かしつけるために歌を歌ったり、絵本を読んだり、あるいは物語を語ったりすることがあった。当然それは子供を眠りに誘うための行為であり、歌や物語の途中でぼくは眠ってしまうから、例えばその歌の最後はどうなるのかとか、その物語はどんな結末になるのかとか、そういうことを知らない。でもまた夜眠る前になると、その歌や物語を欲してしまう。

 

欲するということは、その歌や物語が素晴らしいものだからだと思う。だから結局、具体的な歌のメロディーとか物語の内容が云々ということではないんだろうなあ。

 

眠るという行為もしくは状態は、胎内回帰にとても近いような気もする。眠る前に子守唄を歌うのが基本的には母親の役割だということからもそれは伺える。そして眠っている間には、それこそ映画みたいな夢をみる。あるいは死ぬ直前にも、まるで走馬灯のように、今までの人生のシーンが、あるいは何らかの映像が眼前に映し出されるなんて話も耳にする。

 

眠り、生と死、夢、つまりその世界に付きまとうヴィジョンというものは、人間という生命体に埋め込まれた秘密の部分に深く関係しているはずであり、そのヴィジョンを擬似的に具現化するために、人々は映画をつくったり映画を観たりしているんじゃないのだろうか。

 

映画が、眠りの中にある夢とか、生と死の瞬間に垣間見る世界を、仮想的なヴィジュアルとして描き出しているとすれば、素晴らしい映画という定義はもちろん、夢に限りなく近い世界が描き出されたものであり、生と死の瞬間にしか見ることが出来ない世界により酷似した景色が映し出された作品だということになるんじゃないだろうか。

 

つまりそういった意味で、素晴らしい映画を観ている最中に、そのヴィジョンを夢や生死と誤認識した人間の知られざるシステムが、眠りのプログラムを発動するに違いない。そしてある時期にならないと観られない、歳を重ねて初めて受け入れられるようになるということは、生死の瞬間あるいは生前か死後のヴィジョンを現実的に観てもいい時期に近付いてきているから、つまり死に近付いているからだよ、ということなのかもしれない。

 

一方で、物心付く前の頃の記憶が、曖昧模糊で、夢現で、果たして現実のものかどうかの判断が難しいのは、死の対極である“生”がはじまったばかりの時期だからかもしれない。ただ、生のはじまりは実は別の世界での死であり、死こそ別の世界での生の始まりだと捉えれば、結局はどちらも同じようなものだとも言えるよね。

 

今回ほんとうはまったく違うことを書こうと思って書き出したのだが、途中からおかしな方向に進みだしたので、この実に“重要”な話はこの辺にしておこう。

 

まあ、映画というのは大いなるプロパガンダであると言われているし、もともとその目的ありきで製作がはじまったと言う人もいる。そういった意味で言えば、昨今の映画などはもはや洗脳というレベルとして存在するかもしれない。

 

けれど、ぼくはそれだけではないと思う。

 

映画とは、人が生と死を渇望するがゆえに生み出された、つまり本来自分たちが存在するべき世界への郷愁から生み出された、“本当の世界”の仮想映像なんだと思うよ。そして本当の世界のヴィジョンは眠りの中でみる夢にこそ、あるんだと思う。

 

最後に、『2001年宇宙の旅』の予告編でお開きとしたい。

 

 

 

 

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