ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

follow us in feedly

黒澤明と双子の少女と、神社にいるラスボスを討伐に行く日記

久しぶりに映画を立て続けに観て、ちょっといろんなことを思った。

 

デルス・ウザーラ』、黒澤明だ。圧倒的だった。そしていま観るべき映画だった。映画の勉強をしていたにもかかわらず、アメリカ映画に傾倒していたぼくは、日本の映画にはだいぶ疎い。でも結局、観るべくして観る映画がある。観る時期というものが訪れるのだ。

 

小学生の頃、映画監督になりたかった。いや、いまでもなりたい。いやいや、映画監督になりたいんじゃないんだ、映画が撮りたいんだった。たぶんそこは大いに違うんだなあ。

 

太陽が一番偉くて、次が月で、火と水と風が強くて。人間なんて一番下だね、なにぬねの。

 

園子温の『冷たい熱帯魚』。ちょっと期待していたのだけれど、期待はずれ。おもしろいとは思わなかったし、だらだら観ていたらおわってしまった。

 

う〜ん、もっとはちゃめちゃかと思っていたなあ。あえてなのかもしれないけれど、エロとかバイオレンスに意味合いが希薄なのだなあ。あるいはごく主観的なものになりすぎてるのかなあ。瞬発的な迫力に欠ける。ということで、あまり好きじゃなかった。

 

生きていると、美しいこととあまり美しくないことがある。美しいことと汚らしいことといったほうがよいのかなあ。美しいことが善いとか汚らしいことが悪いとかってことではない。けっきょく表裏一体なものだ。生きていく上で、どちらも同じように存在する。だからいままでぼくは美しいものばかりではなく、汚らしいものにもきちんと目を向けなければいけないと思っていた。でも数時間前に思ったことがあって、今の世界では美しいことが善で汚らしいことが悪となって具現化してしまっていて、悪を受け入れてこその美学みたいなよくわからないことになっている。そんなんだったら、ぼくは「美しいものだけ見て死にたいなあ。」と思った。

 

日々とはいったいどんなことなのかと、永劫に考えている。そんなことをする必要があるのだろうかとか、あんなことに気を使う必要があるのだろうかとか、そもそも日々とは何なのだろうかとか。考えても収まりきれないので、溢れてしまった日々を甘んじて受け入れて、あたふたと足を動かしているが。けれどもだ、日々とは何なのだろうと考えることが、けっきょくは日々なのだけれども、じゃあ、苔むした岩の上にあぐらをかいて、日々を考える日々でいいのじゃないだろうか。そういうことが日々なのじゃないだろうか。

 

ぼくはふたごの女の子と仲良くなり、神社にいる化け物を倒しに行こうと誘われ、時間そっちのけでふたりと遊んでいた。野いちごをもらったり、椎茸をもらったり、1日であった。

 

黒澤明と双子の少女と、神社にいるラスボスを討伐に行く日記

 

そして、おやすみなさい。

 

 

 

恐怖日記: パラノーマルなニオイの謎と、本当は恐いパラノイア臭の関係性。

恐怖日記クローゼットにはヒトオトシサマがいる、本当は恐い忘れられたフォークロア。

恐怖日記風呂場から聞こえる不可思議な音が、本当は恐いヤミゴラの入り口な可能性。 

恐怖日記: 空間の温度変化で、そこに何かがいることを知る。

 


月白貉