ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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ふたつの闇の間に挟まれたホタルと一緒に、ウイスキーソーダを飲みながら夜を明かす日記。

夢でホタルを掌の中へ。

 

ふたつの闇の間に挟まれたホタルと一緒に、ウイスキーソーダを飲みながら夜を明かす日記。

 

淡い光が指の隙間を照らす。ホタルはすぐに飛び立ち、小さな光とともに空にのぼってゆく。必死に手を伸ばして追いかけるけれど、もうぼくの手は、その光には届かなかった。手を伸ばしたまま、しばらく空を眺める。ホタルと同じ大きさの、たくさんの星の光。世界はいろんなところで、当たり前につながっている。

 

「今ここで本当に何が起こっているかは、自分の目で見て、自分の頭で判断するしかありません」

 

ひとりで、小さなグラスで、小さなウイスキーソーダをのんでいる。なにかつまみたいけれど、なにか音楽をかけたいけれど、いまは何もなしにただウイスキーソーダを飲んでいる。ときどきふといろんなことが不安になる。でもけっきょく。

 

数年前にたまたま街で出会った見知らぬ考古学者が言ってくれた言葉を思い出す。「なんでもぶち当たっていけばいい、どうにかなる。どうにもならないことはどうにもならない。どうにかなることはどうにかなる。」そう、そういうことなんだよなあ。

 

雨が降っている。でも窓を開けてみるまではわからない。雨が降っているという誰かの言葉に惑わされて、雨が降っていると思うなかれ。バチバチと響く音だけにとらわれて、雨が降っていると思うなかれ。だから窓を開けてみる。雨は降っている。目の当たりのする雨は、その姿や香りは、実際に感じてみなければならない。誰かのつぶやく雨は、雨ではない。雨を感じなければならない。いま雨が降っていることを自分で知らなければ、その雨はいつまでもやまないのだから。

 

お気に入りのパン屋さんにいったら、フランスパンが焼き立てで、パリパリと歌っている。なんてしあわせな歌だろう。

 

「色彩あり光沢ある虫は毒なりと、姉上の教えたるをふと思ひ出でたれば、打置きすてすごすごと引返せしが、足許にさきの石の二ツに砕けて落ちたるより俄に心動き、拾ひあげて取つて返し、きと毒虫をねらひたり。」

 

ねこの肉球をギュってしたい。嗚呼したい。

 

「ローリング・サンダー」という映画を観る。

 

よい映画だった。ベトナムからの帰還兵が心に闇を抱えてしまうという内容の物語は、アメリカの映画でたくさん描かれている。その闇がいったいどんなものなのか。現実は、いろんな映画に描かれていることなんかには及ばない、大きくて暗い闇なんだろう。心に闇を抱えたヒーロー像は、その影が大きければ大きいほど、なぜかかっこよく見える。大きな闇の反対側に大きな光が必ずあるからだろうか。けっきょく、人間は闇を求めている部分があって、それはなぜかといえば、光だけでは生きてゆけないってことなんじゃないかと思う。太陽が沈まない世界で、果たしてどれだけ生きていけるだろうかってこと。夜が来ることで、人間は眠る時間を取ることが出来る。眠らなければ人は気が狂って死んでしまう。朝起きて夜眠るってことの秩序を壊してしまった現代の生活で、どこに闇を求めるのかといえば、それは自分自身の心の中なのだろう。夜の睡眠の中で夢を見るのは、内面の闇と夜の闇がリンクしていて、そこで何かを生み出しているんじゃないだろうか。

 

夜はちゃんと眠れってことだな。

 

おやすみなさい。

 

 

 


月白貉