神社の裏に隠れている、ヌルヌルしたインド象の握る秘密日記。
足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。
尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。
鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。
耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。
腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。
牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。
それを聞いた王は答えた。
「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです。」
カラスの目には、ツバメはどんな風に映っているのだろう。それってとっても大切なことのような気がする。
ぼくは無礼な人が嫌いである。なんて言うとずいぶん偉そうではあるけれども、ほんとうに嫌いである。親しき仲にも礼儀あり。そういうことがわからない人だとわかった時点で、どんなに仲が良くなろうとも、さっぱりお付き合いをご遠慮願うことも過去けっこうあった。だからほんとうに真剣にお付き合いをしている人は、とっても少ないのです。
時々話をする近所の方にたまたま出会って、いろいろ話していると、いつもは話さないようなことを話してくれた。そして最後に、「じぶんの思うように、出来る限り好きなことをやればいい。」と、そう言ってくれた。
自分の進んでいる道が、ときどき間違っているんじゃないかと、すごく不安になることがある。ほんとうに不安になってくじけそうになることがあるのさ。もちろん、男の子だから、多少のことではくじけたりしないが、でも、きょうのその言葉で、ぼくは自分の歩みをとめることはないのだと、強く知ることになった。
危ういからこその強さがある。それは知っているし、自分もそこそこ強いはずだ。でも、ぼくはまだまだだと痛感した。
きょうの教訓、毎日毎日無駄に情報を貪っているよりも、情報を遮断していた方が、日々は素晴らしい。
実は達成していることでも、自分自身が気付いていないことって、山ほどある。いや気付いてはいるんだ。気付いてはいる。ただ達成したって言えるような段階じゃない気がして、なんだかよくわからんが許せないのだ。そんなことで終わりじゃないだろって、無駄に自分に厳しい部分がある。流すところはわきまえていてトコトン流せるのだが、肝は流せない質なのだなあ。
とある食堂のおかあさんから聞いた言葉が、ずっと頭の中をめぐっている。
「64年なんてあっという間だったわよ。」
18歳の時からの64年と言えば、82年、おそらく激動の82年間だったんじゃないだろうか。でもおかあさんの顔は、とても穏やかなのだ。ぼくは、そういうおかあさんやおとうさんに、よく出会う。なんだかんだで、みなさん、いい顔をされておられる。
ジョギングしていたら、スマートフォンが道に落ちていた。帰りの一本道ですれ違ったのは一組の観光客だけ。行きには落ちてはいなかった。どうしようかちょっと悩んだが、放っておいて車にでも踏みつぶされたら悲しいし、拾ってずいぶん先まで走って追いかけて、落としたかどうか聞いてみたら、やっぱり落としていた。よかったよかった。こんどは誰かに、その思いを返してほしい。
きょう、神社の裏側の階段を降りたら、なんだかすごいヌルヌルしていて、チャップリンのごとくすっころんで落っこちる。「ころんじまった〜」ってでかい声で叫んじゃって、通りかかったおばさんに怪しまれる。コケまみれ、雨水まみれの泥水まみれ。普段滅多に洗わないバックパックを洗うはめになる。
左手首ちょっとやっちまってるし・・・。
おやすみなさい。
月白貉