ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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ローストチキンに必要なのは、愛と平和とチーズとサラダとトカイを二杯日記。

体調がおかしい。ふだん薬も飲まんし医者にもいかないたちなので、ある一定を越して身体がおかしいとすぐわかる。外からなんかへんなもの連れてきたかな。

 

いまの日本が平和で豊かだという幻想と夢幻。

 

「ぬか床は毎日かきまぜなきゃいけない。」というとんだ幻想にずいぶん惑わされてきたが、愛情を込めてほったらかしたほうが絶対によいってことが数年越しで理解できた。

 

過保護は自己満足なだけであって、愛ではないのだ。

 

ある時期、米を炊いていて異様な匂いが気になった。炊飯器のせいだと思っていたが、今同じ炊飯器を使っていてもそんな匂いはしない。炊飯器も米も同じもの。違っているのは、精米してからの時間だということに気が付いた。

 

当たり前のことかもしれないが、今まではわからなかった。大きな気付きだと思う。

 

長靴で深い水たまりに入ったら靴の中がビチョビチョ。穴が開いてるってことだな。長靴に穴が開いてるってことだな。由々しき事態だ。

 

すばらしいローストチキンと、チーズとサラダと、そしてトカイ。葡萄酒は二杯飲んだと記述があるが、サラダの詳細は記述にない。この時代のイギリス人が言うところのサラダといえば、ほぼ固定したものだったに違いない。あるいは今でも。そういうことが重要だな。

 

ローストチキンに必要なのは、愛と平和とチーズとサラダとトカイを二杯日記。

 

やっとヴァイラスから解放されつつある今宵。吸血鬼の本を読む。あくまで民俗学の本、しかも文脈からすると柳田國男からの影響が大きいようだ。

 

グラスの中身は、赤ワインなどという子供じみたものでは、無論ございませんよ、紳士淑女諸君。

 

すっごい久しぶりにカップヌードルなんか食べてみたけど、まずくて気持ち悪くなった。青汁と豆乳のミックスも飲む。

 

ここにこなければ、みつけることができなかったものを、ぼくはみつけた。ただそれだけのために、ここにきたんだとおもう。ほかのことはめちゃくちゃかもしれないけれど、このみちは、ただひとつのことをみつけるために、ぼくがえらんだみちなんだよ。そういうみちを、ぼくはいつもえらんできたし、これからも、そういうみちをえらぶんだろう。たいせつなこといがいは、ほかはめちゃくちゃ。おおいにけっこうじゃないですか。

 

うまく言葉にできないこともある。その時の勢いで言葉にしてしまうこともある。間違いだらけの言葉になることだってある。でも、そこに何もないよりは、そこに何かがあったほうが、よいと思う。傷ついて血が流れて、蔑まれて悩み苦しんで、そして、途方に暮れて、日も暮れて、その意味を考えてみる。

 

He who fights with monsters should look to it that he himself does not become amonster. And when you gaze long into an abyss the abyss also gazes into you.

 

世界にはびこる多くの脅威を、その大きさや色の濃さにかかわらず、それが確固として存在することを認識出来ない人々に、あるいはその多くは、その脅威を知りながらごまかしている人々に、けっしてなにかを変える力などないだろう。

 

常識とは、偏って力の強いものが決めたことに言いなりになることじゃない。

 

自らが知り得た知識と、そして経験、それを駆使して常に動的に活用すべき良識の問題じゃないかと思う。

 

臨機応変に自分で考えて行動する能力のことだ。「これが常識」という誰かの題字で書かれた役にも立たないクソみたいな免罪符、そんな紙切れだけを信じて、自らは考えずに、キョンシーみたいに常識札を額に貼り付けてピョンピョン生きている人間が多すぎて嫌気がさす。

 

だから一度、眠ろう。

 

おやすみなさい。

 

 

 


月白貉