ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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水分補給は雀の涙だと決めている、山羊の角を生やしたカーテン老人の忘却日記。

野暮用のためバスに揺られる。

 

きょうは雨。

 

車窓から外を眺めていると、ちょうど通学時間のようで、中学生やら高校生が傘をさして登校中。その中に、男女相合傘で、手をつないで歩く高校生ふたりがいる。

 

ぼくは男子校だったから、あんなシチュエーションなどありえなかった。いいなあ。あの頃に彼女なんかいたら、さぞ楽しいことだろう。

 

ふと若かりし頃を思い出す。

 

電車やバスを乗り継いで、二時間以上もかかる学校に通っていた。家を出る時間は朝の六時前、冬の時期なんて、空にはまだ星が瞬いていて、路肩にはいつも凍えた犬が死んでいた。家が遠すぎて、部活なんかやってらんね〜、と思って、ほぼ帰宅部の幽霊部員だった。亡霊部員とも言う。

 

あんまり遊んだ記憶がない。

 

いまその反動だろう。

 

 

思い出すという行為は、どんなにがんばっても、自分の思うようにはならない。

 

年老いた人々が、記憶力がなくなっただとか、痴呆だとか、傍から散々言われるけれども、それでいいじゃないか。ぼくはいまでも、そしてもっとまえからずっと、いろんなことを忘れてしまうよ。

 

覚えていることなんか、雀の涙ほどもないと思う。

 

雀が泣いているところなんて、見たことはないから、ほんとうに覚えていることなんか、まったくないに等しいのかもしれない。

 

まあでもいいじゃないか。

 

ぜんぶ覚えていたら、頭がおかしくなる。そりゃ、覚えておきたいこともあるけれどさ。美しい風景や、その風景を一緒に見た人や、そういうことは出来れば覚えておきたい。でも忘れてしまうのだ。それでもいいじゃないか。いま美しい風景をみて、ああ美しいなあと感じて、その瞬間に、横にいるひとに、美しいねえって、言えれば、それでいいじゃないか。

 

そう思う。

 

 

お弁当作ってもらっちゃった。

 

誰かに作ってもらうお弁当は、自分で作るよりも、何万光年も美味しい。

 

 

外から雨の音がするので、閉め切ってあるカーテンをじっと見つめていると、カーテンが変な風にむにゃむにゃ動いているように見える。たぶん動いていないんだと思うけれど、確実にむにゃむにゃ動いている。

 

目に見えているものなんて、けっきょくそんな程度の確かさしかないのだよなあ。

 

動いてるもの、カーテン。むにゃむにゃ動いてる。

 

さて、動いていないカーテンの後ろから、いるはずのないヤギの角を生やした老人が入ってくる前に、もう眠ろう。

 

水分補給は雀の涙だと決めている、山羊の角を生やしたカーテン老人の忘却日記。

 

おやすみかん。

 

 

 


月白貉