水分補給は雀の涙だと決めている、山羊の角を生やしたカーテン老人の忘却日記。
野暮用のためバスに揺られる。
きょうは雨。
車窓から外を眺めていると、ちょうど通学時間のようで、中学生やら高校生が傘をさして登校中。その中に、男女相合傘で、手をつないで歩く高校生ふたりがいる。
ぼくは男子校だったから、あんなシチュエーションなどありえなかった。いいなあ。あの頃に彼女なんかいたら、さぞ楽しいことだろう。
ふと若かりし頃を思い出す。
電車やバスを乗り継いで、二時間以上もかかる学校に通っていた。家を出る時間は朝の六時前、冬の時期なんて、空にはまだ星が瞬いていて、路肩にはいつも凍えた犬が死んでいた。家が遠すぎて、部活なんかやってらんね〜、と思って、ほぼ帰宅部の幽霊部員だった。亡霊部員とも言う。
あんまり遊んだ記憶がない。
いまその反動だろう。
思い出すという行為は、どんなにがんばっても、自分の思うようにはならない。
年老いた人々が、記憶力がなくなっただとか、痴呆だとか、傍から散々言われるけれども、それでいいじゃないか。ぼくはいまでも、そしてもっとまえからずっと、いろんなことを忘れてしまうよ。
覚えていることなんか、雀の涙ほどもないと思う。
雀が泣いているところなんて、見たことはないから、ほんとうに覚えていることなんか、まったくないに等しいのかもしれない。
まあでもいいじゃないか。
ぜんぶ覚えていたら、頭がおかしくなる。そりゃ、覚えておきたいこともあるけれどさ。美しい風景や、その風景を一緒に見た人や、そういうことは出来れば覚えておきたい。でも忘れてしまうのだ。それでもいいじゃないか。いま美しい風景をみて、ああ美しいなあと感じて、その瞬間に、横にいるひとに、美しいねえって、言えれば、それでいいじゃないか。
そう思う。
お弁当作ってもらっちゃった。
誰かに作ってもらうお弁当は、自分で作るよりも、何万光年も美味しい。
外から雨の音がするので、閉め切ってあるカーテンをじっと見つめていると、カーテンが変な風にむにゃむにゃ動いているように見える。たぶん動いていないんだと思うけれど、確実にむにゃむにゃ動いている。
目に見えているものなんて、けっきょくそんな程度の確かさしかないのだよなあ。
動いてるもの、カーテン。むにゃむにゃ動いてる。
さて、動いていないカーテンの後ろから、いるはずのないヤギの角を生やした老人が入ってくる前に、もう眠ろう。
おやすみかん。
月白貉