ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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邪悪な影から逃げていると、銀の宝玉を持った仙人が助けてくれた日記。

偽物の黒い影がいっぱい近寄ってくる。

 

経験豊富で百戦錬磨なぼくでも、時々だまされちゃうこともある。

 

でもね、偽物はすぐにわかる。触れてみたら、嗅いでみたら、目を凝らしてみてみたら、すぐにわかる。そういう影とは、付き合わないことにしている。

 

あるいは誰かはこう言うかもしれない。

 

偽物は偽物として割り切って付き合って、うまく生きてゆければそれはそれでいいじゃないかって。でも、そういうのはぼくはキライなのだなあ。自分が自分へつく嘘を嘘だとわかっていて、その嘘を自分の中で分解して中和できるほど、有り余る無駄な時間もないし、そして蓄積された自分への嘘も、ごく微量にしか体内には持ち合わせてはいないのだなあ。

 

そういうこと。

 

 

時々いろんなことがわからなくなる。世の中の無駄な情報が多すぎるから。ぼくはあえて情報を遮断しているつもりだけれど、まあ、あえてというか自然にかな、それでも隙間から食い込んでくる情報が多すぎる。

 

でも大丈夫。はい、でも大丈夫。

 

そんなことにはあまり興味がないから、自分は自分。そこはたぶん死ぬまで譲らない。知らないことは知らないんだからさ。知った風なことを言うのはもうやめることにした。もし何かが知りたければ、たとえ危険を冒してでも、自らがその何かの本質まで見にゆく。見にいって自分で知る。多くの人がそうあるべきだ。

 

誰かの言葉ではなく、自らの言葉を探しにゆくべきだ。自分が知らない言葉を、誰かから聞いた嘘か真かもわからない言葉を、多くの人々にまき散らしたって、何の意味もないのさ。そこには何もないのさ。ほんとうに何もない。虚無だ。そして虚無は、いろんなものを吸い尽くして、世界を破滅させる。

 

 

長い長いメールを書いて、なんだか悲しくなって、でも負けねえって思って、いろんなものを振り払う為に、ジョギングにゆく。

 

汗だくのバテバテで走っていると、前方から農具を積み込んだ猫車を押しながら、小さなおじいちゃんが歩いてくる。

 

「こんにちは。」と挨拶をすると、「おお、がんばれ、がんばれ!」と話しかけられる。

 

「わしは全国大会に何度も出て、こんなおっきな銀メダル持っとる、だからあんたもがんばれ、がんばれ!」下腹のあたりに両手でメダルの形を作りながら、そう励ましてくれる。「どこからだ?」と聞かれたので、〇〇ですと言うと、「わしは〇〇だ!歩いてきとる。もう八十八だ、まだまだだ!」といいながら、大きな口をあけて、わははわははと楽しそうに笑った。

 

邪悪な影から逃げていると、銀の宝玉を持った仙人が助けてくれた日記。

 

家の場所を教えてもらったけれど、その場所からここまでは歩いたらだいぶある。歩きなれているぼくならそれほどの距離でもないが、八十八歳のおじいちゃんが、重い猫車を押して歩くにはなかなかの距離だ。「こんど〇〇にも連れて行ってくれ!がんばれ、がんばれ!」と言って、おじいちゃんはまた歩き出した。「はい、またお会いしましょう。」と言って、ぼくも走り出した。

 

折り返し地点をまわっての帰り道、おじいちゃんは、川縁の雑草と格闘していた。ぼくはよく見ず知らずの人に励まされる。いろんなものがたまっちゃって、もうだめだよってくじけそうな時に限って、見ず知らずの人が「おいおい、負けるな。」って言ってくれる。そういうことに、なんど助けられたことだろう。不思議なことだ。

 

家に着くと待っていたかのように大雨が降り出した。おじいちゃん、びしょ濡れじゃないだろうか。でもたぶん、笑いながら歩いているだろう。

 

ぼくもがんばります、おやすみなさい。

 

 

 


月白貉