黒い儀式と白い儀式は、公衆便所を夢幻の楽園へと誘う為の魔術。
土曜日の夕暮れ時に、ぼくは必ず近所の寂れた公園に赴く。
晴れた日でも雨の日でも大風の日でも、雪や雹が降り注ごうともとまではいかないが、それでも大雨くらいならば耐え忍んで、ちらりとのひと目だけでもその公園を眺めにゆく。
それは薄暗い雑木林の中にある人寂しげな薄汚い神社の脇にある公園で、そこだけがなぜか雑木林の中に隕石でも落ちた跡のクレーターのようにして、ポッカリと開けている。支柱が折れて地面に倒れて腐りかけた看板に手書きの雑文字で、「公園」とだけ書かれているから、ぼくはその場所を公園だと認識しているが、公園らしき面影はおおよそ持ち合わせてはいない。ブランコもなければ滑り台もないし、砂場もジャングルジムもシーソーも、動物の形をしたオブジェクトもない。
その公園にあるのは、おそらくはもう何十年も誰も使ってはいないだろうと思える、公衆トイレだけだった。そんな場所にある公衆トイレだから、中はさぞおぞましい光景で、呼吸も止まるような悪臭が蠢いているんだろうと思って、一度だけおかしな好奇心と勇気の混合体を胸にギュッと抱きしめて、その公衆トイレの中を覗き込んだことがあるのだが、予想に反して馬鹿みたいに綺麗な公衆トイレだった。
明らかに、毎日とまではいかなくても人の手によって掃除がなされている気配のようなものが伺えた。それこそ下手な駅の公衆トイレなんてものに比べれば、マハラジャかベルサイユ宮殿か、あるいはシャンバラかと言えば嘘にはなるが、壁中に糞とも血液ともわからないようなおびただしいシミが付いていたり、便器の中にミイラ化した猫だか犬だかが鎌首をもたげていたり、一番奥の個室に首をつった腐乱死体が垂れ下がってでもいるのだろうと思い込んでいたぼくの目に映ったその空間は、そういった楽園めいた光景にも値するような夢幻にも思えた。
ぼくがなぜその公園に毎週土曜日の夕暮れ時と決めて足を運ぶのかと言えば、そこで読書をするわけでもなく、その公園の景色が好きなわけでもなく、厳密に言えばただの散歩というわけでもない。
一年前に、共に暮らしていた犬があの世に旅立った。あの世かどうかは分からないが、命が尽きてもう生身では会えなくなって、焼却炉で焼かれて灰になり、その灰は川を流れて今頃はもう海の、それもずっとずっと向こうの方の、海の果ての滝から流れ落ちて、その下の宇宙にでも漂っているだろう。
その犬と共に毎日毎日通ったその公園が、その歩みと時間と風と、そういったぼくの体や心に染み付いてしまったワケのわからない透明な影のようなものが、いつまでたっても、何時間たっても何日経っても、いまはもう一年になるからそれほどの時間がたっても、一向に消えることがない。
犬の名前はトトといった。特に何かにあやかって付けた名前ではなく、ほんとうの思いつきだった。けれど誰かにその名前の由来を説明をする時には、後付のその名前の由来を語った。古代エジプトの知恵を司る神の名前を縮めたものだと、そう説明した。
トトがいなくなってから数日はまさに何にも手が付かなかった。ただただ、あてもなく何かに打ちひしがれていた。苦しみとも闇とも空虚ともわからないような漠然とした単なる穴が、ぼくの体の何処かで口を開いているような感覚だった。もしかしたら穴は体にあるのではなく、ぼく自身がいるのが穴だったのかもしれない。
ただ唯一、それを忘れられる時間が、忘れられる方法があった。それは何も神にすがるとか悪魔に魂を売り渡すような壮大な方法ではなく、毎日の朝夕に行っていたトトとの散歩という儀式を、たったひとりで繰り返すことだった。手にリードを持ち、排泄物を片付ける袋とシャベルを持ち、トトのおやつを入れた水色のバックパックを背負い、ただひとりだけで、いつもの月の表面のような色をした公園に向かうことだった。
ちょうど一ヶ月間、いなくなったトトを連れての朝夕の散歩を繰り返した。そして一ヶ月と一日がたった日の公園で、ぼくはもうトトがいないのだということに気が付いて、公園に跪いて大粒の葡萄のような涙を流した。
それで大方の穴の中は水で満たされ、あと少しのわずかな岸辺のようなものだけが残った。
ぼくはその岸辺を、これからずっと土曜日の夕方に見に行こうと決めた。トトのことはもう忘れてもいいけれど、トトとぼくの間の細い糸のようなものは時々手繰る必要があると思ったからだった。
だからぼくはそうやって、いまではもうリードも袋もシャベルも、そしておやつも持たずに、ただ水色のバックパックだけを背負って、公園を訪れる。土曜日の夕暮れ時だけに、その何もない、何もないからこそ何かを見渡すことが出来るその公園を見に、足を運んでいる。そして時には公衆トイレを覗き込んだり、公園の真ん中で空を見上げたり、時々にはトトに話しかけようとして小さな米粒ほどの涙を少しだけばら撒いたりしている。
そんな風にして生きながらえて、それから一年と数日が過ぎたある日の土曜日の夕暮れ時、公園の公衆トイレの前に深緑色をしたワンピースを身に纏ったひとりの老婆が立っていて、手には大きなホウキを持っていた。ぼくが公園に足を踏み入れると、その老婆の背後から小さな黒猫が現れ、こちらにキッとした眼光を突き刺してから、すぐ脇の雑木林の中へ黒い風のようにして消えていった。
「犬は元気かね?」
老婆がこちらに近づきながらしわがれた大きな声をあげた。
「えっ、なんですか?」
「犬だよ、いつも連れてるだろ、犬は元気かね?」
老婆はぼくから二メートルほど離れた場所まで来ると歩を止めて皺だらけの笑みを浮かべた。
「いや・・・、ずいぶん長い間、犬なんか連れていませんよ。」
「ああ、そうかね。あたしはてっきりあれは犬かと思ってたけど、あれはちがうものかね。」
「あれって・・・、あれってなんですか?」
「あんたがいつも夕暮れ時にさ、ここに一緒に連れてくるあれだよ、あれは元気かね、今日はいないようだねえ。」
「いや、何も連れてなんかいませんよ・・・、ずいぶん前の話ですか?」
「先週の土曜日も、その前の土曜日も、連れてただろ。」
ぼくが老婆の目を見つめながらしばらく黙っていると、老婆はヒャヒャヒャと声を出して笑い声をあげた。
「知ってるよ、死んだんだろ、あんたの犬は。」
ぼくはワケもわからず、その言葉の意味もあまり理解せずに、ただその言葉に操られるようにして頷いた。
「その死んだ犬のことだよ、あれってのは、あれは犬だろ、元気かね?」
「いや・・・、死んだから・・・。」
「死んだって同じだよ、だから連れてきてるんだろ。」
「そういうわけじゃないんですが・・・、えっ、おばあさん、何か見えるんですか?」
「今日は見えないねえ、だから元気かねって聞いたんだよ。」
「今日は、いない・・・んですか?」
「死んでから何日経ったんだね?」
「えっと、えっと、一年と九日かな、確かそうです、今日で・・・。」
「ああ、なるほどね、じゃあもうここに来る必要もないね。」
「どういうことですか、来る必要がないって?」
「形を変えたからさ、もう犬じゃなくなったからね、あんたには付いてこられなくなって、ゴーリラルに行っちまったのさ。」
老婆はそう言うと、またヒャヒャヒャと笑いながらぼくに背を向けて公衆トイレの方に向けて歩き出した。
「ちょ、ちょっと、なんですか、ゴー、ゴーなんとかってのは、それはなんですか?」
老婆はこちらには振り返らずに立ち止まった。
「もう少し早くあんたに話しかけたらよかったけれどね、あんた、あたしの姿が今日まで見えなかっただろ、一度だけトイレの中に入ってきたから相談に来たかと思ったんだけどさ。」
「えっ?」
「あたしは魔女でね、普段は人には見えないようにして生きてるのさ。まあ死んでるとも言うけれどね、ヒャヒャヒャ、とにかくだ、あんたはその犬がちゃんとゴーリラルに行けるようにしてずっと付き合ってやったんだから、偉いもんだよ。でももう終わったんだよ、きょう家に帰ったら、きっともうここに来る必要がないことがわかるだろうよ。あたしはお節介焼きでいけなくてね、ずっとあんたを見てて、時々いろんなことを投げ出すんじゃないかって心配だったんだよ。だから今日はさ、お節介ついでに、最後までやり遂げられるかどうか確認しようと思ってさ。だから聞いたんだよ、犬は元気かねって。」
「魔女・・・。」
「犬の名前は何ていうんだい?」
「あっ、トトです・・・。」
「ほ〜、そりゃ、あれかい、トートからもらったのかい?」
「あっ、まあ、そんなところです・・・。」
「そうかい、いい名前だね。じゃあ、あたしはこれで失礼するよ。もう会うこともないだろうけれど、もし何か相談があれば、今日の好もあるから一度くらいなら聞いてあげるよ、殺したいやつがいるとかさ、毒が必要だとかさ、生き返らせたい恋人がいるとかさ、ヒャヒャヒャヒャ、白でも黒でもさ、もし必要だったらここにまた顔見せなよ、じゃあね。」
老婆はそう言うと、ホウキをズリズリと引き摺りながら公衆トイレの中に入っていった。
気が付くともう辺りは異様に真っ黒な闇に包まれつつあった。ぼくは急に怖くなって急いでその公園を後にした。公園を包み込む黒い雑木林を足早に抜けた先の小さな薄暗い街灯の下に、見たことのあるような動物らしき影が一瞬揺らめいたが、ぼくはそれが一体何なのか思い出すことができなかった。
そして、もう土曜日の夕暮れ時に、あの公園がぼくを呼ぶことは二度となかった。
月白貉