図鑑で読んだことあるし、知ってるし、っていう話。
近所でまたひとり、行方不明者が出たって、近所の交番に張り紙がしてあったって、夕飯の時に母さんが父さんとヒソヒソ話しているのを聞いた。
たぶん、雨の日にあの公園にいったんじゃないかと、母さんはそう言っているようだった。
ぼくが箸を止めて、じっと二人の様子を見つめながら耳をそばだてていると、母さんと父さんがぼくの方を一瞬だけジロっと見て、話をやめてしまった。
ぼくの家から歩いて十五分くらいの場所には、宮ノ裏公園という小さな児童公園がある。それは、老朽化が進んで今では誰も住まなくなって封鎖されている廃墟になった団地の真ん中にある公園で、最初はその団地の住人が利用できるようにと作られたものだったらしいけれど、まだ団地にたくさんの人々が住んでいた頃にも、団地の住民は誰ひとりとして、もちろん子供たちも、その公園を使っていなかったらしい。
人が住まなくなってもう何年も経って、外壁も、おそらくは中もボロボロになった団地だったが、何故かいまだに壊されずに、そこに何かの影のようにして、ずっと佇んでいる。団地は四棟あって、その四棟に囲まれた小さな隙間のような、まったく日の当たらない薄暗い場所に、その公園はあった。
町の人はその公園のことを、あまり口にしたがらなかった。
団地の名前が宮ノ裏団地というものだったから、特に名前を持たないその公園のことを、かつてはみんなが宮ノ裏公園と呼んでいた。だけれど、町の人たちはいつの頃からか知らないが、その公園のことを、フナムシ公園と呼ぶようになっていた。ぼくは一度、父さんや母さんに、なんでみんながあの公園のことをフナムシ公園なんて奇妙な名前で呼ぶのかと聞いたことがあるが、二人ともぼくの質問がまったく聞こえていないかのようにして、押し黙り、しばらくしてから知らないと言った。
フナムシのことを、ぼくは図鑑で読んだことがあるし、もちろん本物を何度も見たことがある。
海辺の砂浜や岩場なんかでウジャウジャと這い回っている、ゲジゲジとゴキブリが合体したみたいな、あの不気味な虫のことが、ぼくは大嫌いだった。豆粒みたいに小さいのから、父さんの拳よりも大きいようなのまでが、ザワザワとザワザワと地を埋め尽くして蠢いていて、見ていると恐怖で気持ちが悪くなって、吐き気がした。
いつだったか、ある夏休みに、四国に住む親戚の所に家族で遊びに行った時、小さな海水浴場の隅の岩場でフナムシの姿に怯えるぼくを見た叔母さんが、あれは別に人を襲うわけじゃないし、人が向かっていけば必ず逃げていくんだから、何も恐いことなんかないじゃないのと、笑いながらそう言った。けれどぼくの読んだ図鑑には、フナムシは雑食で海岸の掃除役と呼ばれていて、なんでもかんでも食べると書いてあった。藻や苔なんかも食べるし、他の生き物の死体なんかも食べるし、そしてフナムシの餌食になるリストの最後には、人間もその例外ではないと、そう書かれていた。
フナムシは人間も食べると、たしかにそこには書かれていた。
ぼくがそのことを叔母さんに言うと、まったく臆病だねえといって、大笑いをした。
でも、いったいなんで、あんな海の近くでもない公園の名前に、フナムシなんていう気持ちの悪い変な名前が付けられているのかと、ぼくは時々思い出したようにして、小学校のクラスが一緒だった数人の友だちにも聞いてみたことがあった。例えば学校に伝わる怪談話みたいに、あの公園にはなにか恐い噂があって、それが原因でそう呼ばれているんだよというありふれた答えを、ぼくはいつも無意識に望んでいたのだけれど、みんな決まったように知らないとだけ、それは誰かに口止めでもされているように、教え込まれた台詞のようにして、そう答えた。
しかしただひとりだけ、近所に住む幼馴染のサナちゃんだけが、あの公園のトイレにフナムシがウヨウヨいるからだよという、信じがたい噂を隠し持っていて、ぼくにこっそりと教えてくれた。でもこれは内緒の話だから、このことは誰かに喋っては駄目だし、もちろんサナちゃんが言っていたということも秘密だと、彼女はそう言った。そして彼女は、こう付け加えた。
「フナムシがトイレにウヨウヨいるのはね、強い雨の日だけなの。それでね、トイレの、女子トイレには個室が二つあるんだけど、その奥の方の個室にはね、便器がなくて床に大きな穴が開いてるの。それで、そこにすごく大きなフナムシがいて・・・、それはフナムシのお母さんでね、そこに住んでて、いっぱい子供を産むの。」
ぼくが、なんでサナちゃんはそんなことを知っているのかとたずねると、彼女は黙ってしまって、それ以来、いっさいその話を口には出さなかった。
サナちゃんのお婆ちゃんは数年前の夏の終わりに、この町で行方不明になった多くの人と同じように、ある日忽然と姿を消してしまった。それは大きな台風がこの地域一帯を襲った日で、お婆ちゃんはちょうど買い物に出ていて、増水した近所の用水路に誤って落ちたんじゃないのかと言われたのだけれど、遺体は一切見つからなかった。その日、サナちゃんはお婆ちゃんと一緒に買物に出掛けていて、けれど激しい豪雨の中を走って家に帰ってきたのは、彼女ひとりだけだった。びしょ濡れだった彼女の原因が、雨だけではないことには、もちろんその時は誰も気が付かなかった。そしてその日から数日間、彼女はまったく口を利かなかったし、お婆ちゃんのことについては一切記憶がないらしいという話を聞いた。
しばらくしてから、町ではあの公園の噂が、忘れられた暗い隙間から這い出してきたようにして、こっそりと囁かれていた。
サナちゃんの秘密の話を聞いた日から、ぼくの体の周りに、薄くてジットリと湿った膜のようなものが張り付いてしまって、取れなくなった。そしてそれが毎日毎日、ぼくの周囲に、呪われた沼のような緑色の腐臭を漂わせた。
何日経っても何日経っても、消えるどころか日に日に育ってゆくかのようにぼくの体を締め付けるその膜に耐えられなくなったぼくは、ある日それを引き裂く方法を思いついた。
あの公園に行って、サナちゃんから聞いたその話が、ほんとうはそんなことなんかあり得ないということを、自分の目で見て確かめて、自分に言い聞かせれば、ぼくの身に纏わり付くこの呪いのようなものを引き裂き、剥ぎ取れるんじゃないのかと思った。
ぼくはある強い雨の日の午後に、クラスの友だちの家に遊びに行くと母さんに嘘をついて、宮ノ裏団地の公園に向かった。昼か夜かもわからないようなおかしな色を帯びた空が、まるでぼくの頭のすぐ上にまで迫ってきているんじゃないのかと思うような、濃い灰色の空気に満ちた日のことだった。
公園につくと、海から這い上がってきたばかりのびしょ濡れの四人の黒い巨人のような団地の建物が身動きもせずにじっと見下ろす空間で、ブランコと、すべり台と、パンダとライオンの色あせたオブジェが、雨に打ち叩かれていて悲鳴を上げていた。そしてそのもっと奥の水煙の中に、こちらをぼんやりと見つめるようにして、公衆トイレの斑に黒ずんだ影が浮かんでいた。
雨の音が強すぎて、あまりにも強すぎて、ぼくの周囲がまったくの無音になったように感じた。
ぼくがしばらくそこで立ち尽くしていると、公園の隅から、あのトイレの方向から、男の人が叫ぶような、嗚咽するような大きな声が突然響いてきた。ぼくは意味の分からない激しい恐怖に襲われ、その嗚咽に似た声が自分に感染したかのようにして、喉をつまらせて嗚咽してしまった。顔に血がのぼってきて、苦痛を伴った熱のようなものが頭の中で暴れだして、目に涙が滲み出した。
するとその時、無意識に後ずさりをし始めていたぼくの潤んだ目に、公園の隅の四角い影の奥から、人のようなものが走り出てくるのが映った。その人影は、公園の真ん中くらいにまでくると、バタリと地面に倒れて動かなくなった。
雨の音とは違う種類の、ざわついたノイズ音のようなものが聞こえてくる。
ぼくはその音を発しているのが、倒れた人影に打ち寄せる波みたいにして近付いてくる、あの地を這うおかしな影だということにすぐに気が付いた。
その、なにか水のようにしてトイレの奥からザワザワと流れ出てきた影は、倒れている人影をすっぽりと包み込んで、今度は波がひいてゆくみたいにして、人影もろとも、人影を引きずるようにしてトイレの中へと消えていってしまった。
何かがトイレの方から、こちらを見ている気配がした。
間を置かずに、トイレの入口の壁の陰から、何かがこちらに向けて顔を覗かせるのが見えた。
目を背けたかったが、どうしても体が言うことを聞かなかった。気が付くとぼくはいつの間にか、今さっきまでさしていた傘を地面に打ち捨てていた。激しい雨に体をビチビチと打たれながら、ぼくがその時目にしたものは、髪がボサボサで、茶色いボロボロの布切れを体に纏った、老婆のようなものの姿だった。それは、トイレの薄汚れた壁に頬をズリズリと擦り付けながら、明らかにこちらに視線を向けていた。
それがすぐにでも、ぼくに向かって、すごいスピードで這い寄ってくるという予感のようなものが頭をよぎった。
「あ〜っ!!!!!」
ぼくは渾身の力を込めて大声を上げた。そして身に受けている金縛りを、未知の金属で組まれた強固な鎖のようなものを弾き飛ばして、公園に背を向けて全速力で走った。ぼくの背後で、動物の泣き叫ぶような不快な声があがったような気がした。
その後のことは、水分に塗れた街角の所々の景色を断片的に覚えているくらいで、ほとんど記憶にない。
気が付くと、家の玄関の前の地べたに座り込んで、雨に打たれながら咽び泣いていた。
ぼくがあの日見たものが、一体何だったのかは、それは今でもまったくわからない。想像もつかないし、もう二度と思い出したくもない。
けれど、そういうことに限って、頭の内側にベットリとした脂みたいにしてこびり付いてしまって、どんなに自分で取ろうと思っても取れなくて、そしてことあるごとに、ぼくがちょっとでも気を緩めたり息抜きをしたり、手を休めたり足を止めたり、眠くなったり眠ったりすると、それはぼくの体の穴という穴から静かに染み出してきて、汗や鼻水みたいにして床に滴り落ちて、ドロドロと床を這いずり回った挙句に、唐突にピタリと動かなくなって小さな水たまりを作り、ザワザワと波を立てて蠢き、次第にその水たまりは黒々と濁りだし、中からあの時の何かが、顔を覗かせる。
そして怖くて動けないでいるぼくの片足を、あの何かがものすごい力で、足が千切れてしまうんじゃないかと思うくらいの力で掴んで、決して離さない。そして、そのまま真っ黒な水たまりの中へと、ぼくを引きずり込もうとする。その水たまりに引きずり込まれたら、たぶんぼくは、あの何かにバリバリと食べられてしまうに違いない。もしかしたら自分では気が付いていないだけで、ぼくはもう黒い水たまりの底にいるのかもしれない。だとしたらもうすぐにでも、ぼくはここで凄まじい恐怖に震えながら、あの何かに貪られてしまうのだろうか。
そんな呪いのような感触が、いまだにぼくの身に巣食っている。
いまでも町の人たちは、クラスの友だちも、父さんも母さんも、みんな、誰一人としてあの公園のことについて、多くを語ろうとはしない。なぜあの公園が、あんな奇妙な名前で呼ばれているのかなんて、知らないと、口を揃えて言うに違いない。
闇はいつだってすぐ側にある。けれど多くの人々は、その闇から目を背けようとする。その闇に気付かないふりをする。そうやっているうちに、闇が見えなくなってしまう。闇の存在を忘れてしまう。けれど、闇はそれとは関係なしに、人々を圧倒的に噛み砕き、飲み込んでゆく。
あれは雑食だから、なんでもかんでも食べてしまうし、人間もその例外ではないと、ぼくが読んだ図鑑には、たしかに書かれていたから。
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月白貉