ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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東京を離れようと思っている人への、何の役にも立たない短いメモ書き。

ぼくが地方に移住して数年、出会って話をした若者の中に、「東京にゆきたい!」と言っていた人が思いの外たくさんいた。

 

東京を離れようと思っている人への、何の役にも立たない短いメモ書き。

 

ぼくが東京に長く住んでいたと言うと、「なんでこんな何もないところに来たんですか!?」と真剣に驚かれたこともあった。

 

東京にゆきたいと思うことが決して悪いことではないけれど、彼らの「東京」にはいったい何があるんだろうか。

 

ぼくは別に何かがあるから東京に住んでいたわけではなく、きっかけは東京の大学に進学したから。そのまま惰性でなんとなく長く住んでしまった。

 

ある年に東北地方で大きな地震が起こり、津波が押し寄せ、原子力発電所が爆発した。

 

それから少しして、いっしょに暮らしていた恋人と別れた。

 

その後もしばらくは東京に住んでいたけれど、ある日、ぼくの東京にはいったい何があるんだろうと思った。仕事場の高層ビルの窓から眺めていたある大雨の日の東京、一瞬だけ黒々とした分厚い雲に裂け目ができて、凄まじい光の筋が街を照らした瞬間に、ぼくは東京を離れることを決め、その日の内に上司に退職の意を告げた。

 

その後のことは、その後考えればいいと思った。なぜならその後のことなんて、いくら事前に綿密に考えたところで、その後のことのなのだから。

 

移住して最初に二年間暮らした山の中の町には、たしかに東京に比べたら文字通り「何もなかった」。東京に比べる云々ではなく、ほんとうに何もない場所だった。でも何もないところだからこそ、多くの何かが探し出せることを知ったし、多くのぼくだけの、その何かを見つけた。それは、おそらくは東京では見つけられない種類の何かだったと思う。

 

すでにあるもの、誰かにあたえられたもの、向こうからやってくるもの、そういうものはたくさんあるし、そういうものの中にも大切なものもあるかもしれないけれど、もっともっと真剣に目を凝らすと、その多くはたいしてぼくには必要のないものだったことに気が付いた。

 

どれだけたくさんのものがあふれた場所で暮らしていようとも、自分の両手にはそんなにたくさんのものは抱えられないし、抱える必要もない。

 

そして、そういうことは結局理屈ではなくて、実際に自分がぶち当たってのたうち回ってみなければ、そういう経験でしか、理解することは出来ないのだろう。

 

今でも時々ふと、東京が恋しくなることがある。

 

だって、人生の半分以上を東京で過ごしたんだから、そのくらいの権利は、たぶんぼくにだってあるだろう。

 

ただそうやって恋しくなるのも、たぶん東京都と離れ離れになったから。いまぼくがこの場所に立っていなければ、きっと東京を恋しく思うことなんて、なかったのかもしれない。

 

いつかもしかしたらまた、東京で暮らす日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。

 

その後のことは、いつだってよくわからないから。

 

だからこれを、いまどこかでひっそりと、東京を離れようと思っている、誰かへ捧ぐ。

 

 

 

 

月白貉