ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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他人の焼き鳥に便乗して賢者になるくらいなら、 むしろ自分の冷奴だけに頼る愚者であるほうがましだ。

ぼくがちょっとした用事で、少し遅れて赤羽のいつもの焼き鳥屋に到着すると、店長は店先のいつものドラム缶をいつものように陣取っていて、でも飲んでいたのはいつものホッピーではなく、珍しく瓶ビール、銘柄はSAPPOROだった。

 

「すいません、遅くなっちゃって。」

 

「おう、いいよいいよ、何飲む?」

 

「えっとじゃあ、ホッピーにします。」

 

店長が「すみません!」と言って手をあげると、いつものウメちゃんが「はいはいはい。」と言いながら小走りにやってきた。

 

「あら、どうもいらっしゃい。きょうは独りかと思ったら、やっぱりふたりなのね。はい、なんにしますか?」

 

「えと、ホッピーセットと、あと鯖の揚げ出しと、マグロ納豆と、つっちゃんは?」

 

「あ、えっとじゃあ、漬物盛り合わせと、あと冷奴、お願いします。」

 

「はいはい。それにしてもあんたたち、いつも焼き鳥食べないわよね。うちは焼き鳥屋ですよっての。でもまあそっか、まあでもそれもいいか。ここが焼き鳥屋だからって、だから焼き鳥食べるってだけが人生じゃないわね。ひとそれぞれ、人生いろいろだものね。はいはい、じゃあちょっと待っててね。」

 

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ウメちゃんはそう言って、鼻歌で人生いろいろを歌いながら店の中へ戻っていった。

 

「ウメちゃんのネームプレート見た?」

 

「いや、見てないです、名前、変わってましたか?」

 

「いや、値段書いてあった・・・、はははははははっ。あのおばちゃんおもしろいよな。ああいうのが接客ってもんだと、ここに来る度につくづく思うよ。」

 

店長が嬉しそうに笑いながらグラスのビールを飲み干したので、ぼくは空になったグラスに波々とビールを注いだ。

 

「いくらって書いてあったんですか?」

 

「120円。」

 

「やすっ!葱間一本と同じじゃないですか・・・、ははははははっ。」

 

それからすぐに、ウメちゃんがぼくのホッピーセットと、マグロ納豆と漬物の盛り合わせを運んできたので、二人は改めて乾杯をした。

 

「店長、ビール飲んでるのって珍しいですね。家でも店でも、店長がビールなんて飲んでるのぼく、見たことないですよ。」

 

「そうだっけ?まあ夏だしな、こういう暑い日だから、ビールにしてみたんだよ。あれだよ、あれ、なんだっけ、ロハスロハスな!」

 

「いや・・・、ロハスじゃないと思いますが。」

 

「そっか、ロハスじゃないのか。でさ、つっちゃん、おれさ・・・。」

 

「はい。」

 

「おれけっきょくやっぱ、会社辞めることにしたよ。」

 

「そうですか・・・。」

 

しばらくの間、店先のドラム缶の周囲に大きな沈黙の球体が現れて、二人をすっぽりと包み込んだ。無数の蝉の声や、雑踏のうねりや、熱を持ちすぎたアスファルトが放つ悲鳴のようなものが街のあちこちから噴き出していたが、その球体を突き破って中に入ってくることはなかった。

 

ずいぶんと長い時間が過ぎたあと、店長が「すみません、ホッピーセット!」と言って体を仰け反らせて戯けたように手をあげると、その球体は音を立てずに静かに弾け飛び、再び二人の周囲に街の音がゆっくりと流れ込んできた。

 

「おれさ・・・、この歳になって、いったいこの先、何したいんだっけって、どうすればいいんだっけって、昨日の夜さ、ずっと考えてた。いや考えてたんじゃなくて、そんな風にして、ぼんやりしちゃってさ。今までなにかひとつのことずっとやり続けてきたわけじゃないし、貯金だってまったくないし。結婚もさ・・・、まあサツキ先生はいるけど、まだどうなるかなんて、そんな確かなことは見えないしさ。当然、まだ子供だっていないし。そうやってなんか、眼の焦点が合わなくなって、窓から見える濃い青い空、漠然と見上げちゃってさ。おれ、けっこうメンタル強いからさ、そういうことで悩んで、ぶっ潰れたりぶっ壊れたりすることはないんだよ。でもさ、潰れたり壊れたりのほうが、もしかしたらよっぽど、楽なのかなあって。」

 

ぼくは黙ってホッピーの入ったグラスを見つめながら、それを聞いていた。ほんとうは何か言おうとしたし、ほんとうは何か言わなくちゃいけないんだと思った。けれど、目の前でふいに噴き出して流れ出した水のようなものを慌てて無闇に手で押さえつけてとめようとしても、結局その水はとまることはないんだと思い、やめてしまった。そのままいつか水が勝手にとまるまでじっと待ってからでも、水が尽きてその流がとまってしまってからでも、それから何かを考えて、何かを口すれば、それでも十分に間に合う気がした。

 

「こんな話でごめんな、おれ友だちがいないからさ、酒飲んで話するのって、つっちゃんくらいだし。サツキ先生にこういう話は出来ないんだよな、なんか。わざわざ話さなくても、ぜんぶ知ってると思うからさ・・・きっと。話題変えようか。」

 

ウメちゃんがホッピーセットを持ってきて、「はいはい、どうぞ!」と言って、ドラム缶の上に音を立てて置いていった。

 

「話題ちょっと、戻すんですけど・・・。」

 

「おっ、なんだ戻しちゃうのか、どうぞどうぞ。」

 

「さっきウメちゃんが、焼き鳥屋だからっていって、焼き鳥食べるだけが人生じゃないって・・・。」

 

「はははははっ、言ってたな。」

 

「ぼくも、店長が今言ったみたいなこと、すっごくよくあるんですよ・・・。なんていうか、まあいま店長が言ってたようなことです。ぼんやりして空見ちゃうことです。それって、辛いとか苦しいとか、そういうことよりもたぶん何か上の方のことっていうか、別の軸のことで。なんで時々ふとそうなっちゃうのかなって今考えたら、焼き鳥屋で焼き鳥食べてる人のことばかり、気にしすぎてるんだろうなって・・・、うまく言えませんが。」

 

店長は黙って頷いている。

 

「店長もぼくも、なんでかわからないけれど、焼き鳥屋に来てもまったく焼き鳥注文しないし、たぶんそれはあえて目立とうとか、意地はってるとかじゃなくて、単純に食べたいと思ってないからなんですよね。それで二人で焼鳥食べずにここで漬物だけかじりながら、冷奴だけ頬張りながら、そうやってるだけでも、すっごく楽しいじゃないですか。だから別に、壊れたり潰れたりしなくても、その焼き鳥屋のことを、今の自分の世界に移行して考えることができれば、ずっと楽になるんじゃないのかと・・・、それを、いま、今思ったんで、店長に言ってみようと思って、できるだけ余計なもの削ぎとって、ぼくなりに言ってみました。」

 

店長が「ありがとう。」とだけ言って、いつもの笑顔で、グラスを手に持ってドラム缶の中央に掲げたので、ぼくも同じようにして笑って、グラスを掲げた。

 

そうやって、店長とその日二度目の乾杯を終えた後にふと店の奥に目を向けると、カウンターの横に立ってこちらを見ているウメちゃんと目が合った。ぼくがコクリと軽く頭を下げると、ウメちゃんが静かな笑みをたたえてこちらに手を振った。

 

その時ぼくにはウメちゃんの姿が、はるか昔の哲学者を象った、少し黄ばんで薄汚れた白い彫像のように見えた。

 

 

 

 

月白貉