ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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夏休み前の小学校によくありがちな、赤マント的吸血鬼の話。

ぼくが小学三年生の時の話。

 

夏休みを目前に控えたある日、二時間目の国語の授業が始まってすぐに、渡辺くんが手を上げてトイレに行きたいと言い出した。

 

おそらくは大きい方だったと思うのだが、渡辺くんが顔を真っ赤にして、椅子から腰を浮かせて体をモゾモゾさせて、「先生、トイレに、行ってきてもいいですか?」と言ったので、教室中がガヤガヤとざわめいた。担任の中野先生が黒板からこちらに向き直って、「はい、行ってきていいですよ。」と渡辺くんに告げると、彼はお尻をおさえながら能楽師のような摺り足で、サササと戯けたように教室を出て行った。それを見て教室中が笑い声を上げた。

 

中野先生は再び黒板に向かってチョークで文字を書きだした。その時国語の授業で何を扱っていたかは、忘れてしまった。

 

それからどれくらいの時間が過ぎただろうか。渡辺くんが席を立ってトイレに向かってから、もうずいぶんと長い時間が経過しているように思われた。たとえ大きい方だったとしても、なにか特別な理由がない限りは戻ってきてもいいはずだったが、渡辺くんはまったく教室には戻ってこなかった。そのことで再び教室中がガヤガヤとざわめきだした。中野先生も当然ぼくたちと同じようなことを思ったらしく、生徒たちに静かにしなさいと言ってから黒板の下の溝にチョークを起き、「ちょっと渡辺くんの様子を見てくるから、みんなは教科書の今の部分を読み返していてね。」という風なことを言って、教室の前の引き戸を開けて出て行った。

 

中野先生が出て行った途端に、もちろん教室中が一気に騒がしくなり、渡辺くんの話で持ちきりになった。だいたいは、我慢できなくて途中で漏らしたから戻ってこられないんだよというような、子供たちがするトイレの話には付き物の話題だった。

 

トイレの場所は、ぼくのいる三年三組の教室のちょうど向かいに位置した階段の両脇にあって、教室から見て右側が女子、左側が男子のものになっていた。ちなみに学校の校舎は東棟と西棟に分かれていて、東棟に一年生と三年生と五年生の教室、西棟には残りの二年生と四年生と六年生の教室があった。どの階の構造もほとんど同じようなもので、トイレはそれぞれの階ごとに男女が一対、階のほぼ中央に位置する一階と三階の間をつなぐ階段の両脇に位置していた。

 

夏休み前の小学校によくありがちな、赤マント的吸血鬼の話。

 

教室の後ろのドアが突然物凄い勢いでガラガラガラと開き、中野先生が渡辺くんを抱えて入ってきた。渡辺くんの首から下、運動着のTシャツと短パン、靴下と上履き、手や足に、真っ赤な液体がベットリと付いて床に垂れていた。渡辺くんを抱える中野先生のシャツとスカートもその赤い液体で濡れていた。

 

教室中の生徒が椅子に座ったまま後ろを振り返って凍りつき、一瞬にしてその場が沈黙に包まれる中、クラスで一番のワルガキだった清水くんが、「先生っ、福山先生を呼んでくる!!!」と言って教室を飛び出していった。中野先生は声にならない叫び声をあげているような表情で、渡辺くんを抱えたまま教室の後ろの床にゆっくりと崩れるように座り込んだ。

 

すぐに三年二組の福山先生が教室に駆け込んできた。その後から清水くんも駆け込んできた。

 

その状況を目にして「どうしたんですかっ!!!」と驚きの声をあげる福山先生に、中野先生はまったく反応せず、渡辺くんを抱えたままうなだれている。福山先生は中野先生に駆け寄ってもう一度「どうしたんですか!?」と声をあげたが、中野先生の様子を察してすぐに彼女の腕から渡辺くんを抱え上げて、「みんなは、ここで静かにまってなさい!!!」と檄を飛ばし、「清水くん!四組の斉藤先生呼んできて!!はやくはやく!」と叫びながら、渡辺くんを抱えてすごい速さで教室を出て行った。

 

教室の後ろでは、中野先生が宙に両腕を浮かせて、しゃがみこんだ状態のまま、まったく動かなかった。

 

その後、四組の斉藤先生がやってきて、福山先生とまったく同じように驚きの声を上げたが、中野先生はそれには一切反応せずに動かないままだった。斉藤先生は中野先生を抱え上げて、福山先生と同じようなことを生徒たちに叫びながら、教室を出て行った。

 

教室中の生徒がいったい何が起こったのかという放心状態だったが、中には数人泣き出している女子もいた。

 

しばらくして、教頭先生や校長先生や、他の知らない大人たちがゾロゾロと教室にやってきて、結局三年三組の生徒はいったん体育館にランドセルを持って移動させられ、一時間ほどそこで待機させられた後に、それぞれの保護者に付き添われて下校することになった。午前中ということもあり都合の付かない家も多かったが、他の保護者に付き添われたり、教頭先生や他の手の空いている先生に付き添われて、すべての生徒が下校していった。

 

ぼくの学校には、吸血赤ラミアーという、いわゆる学校の怪談があった。

 

学校の二階の男子トイレの一番奥の個室で授業中に用を足していると、突然トイレの中に口笛のような音が響き渡る。そして個室の外から、学校にいる自分の見知った女性教員の声で、「〇〇くん、〇〇くん。」と、自分を呼ぶ声がする。その声を無視して個室内で黙っていれば、「なんだ、いないのか・・・。」というまったく別の誰かの声が聞こえてきて、また口笛のような音が響き渡るが、それは次第に遠ざかってゆき、消えてしまう。これが無事に済む方のケース。

 

しかし、自分を呼ぶ声に反応したり返事をしたりしてしまうと、「あら、いたのね。」という声がして、個室の上から下半身がヘビのような女が雪崩れ込んできて、血を吸われた後にどこかに連れ去られてしまう。そのままずっと行方不明になる場合と、数日後に体育倉庫の中で死んでいるのが見つかるという場合がある。これが無事には済まないケース。

 

渡辺くんがその後どうなったかと言えば、死にはしなかったようだが、しばらく学校を休んだ後に転校してしまった。理由は家庭の都合だということだったが、あの出来事の後は一度も学校には現れなかった。だから本当のところはよくわからない。

 

中野先生は、その後すぐに、やはり一度もぼくたちの前に現れないまま、学校を辞めてしまったそうだ。三年三組はその後のしばらくの間、臨時の教員が持ち回りで担任を務めていた。

 

これが、ぼくが小学三年生の時、夏休みの前のある暑い日に起こった、奇妙な出来事だった。

 

でもあの時、教室の後ろでうなだれていた中野先生の口の周りが真っ赤に濡れているようにも見えて、一瞬だけれど、その真っ赤な口元が笑っていたような気がしたのは、果たしてぼくだけだったのだろうか。

 

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月白貉