ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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ホッピーのナカのDNA

「虫って逃げるじゃない、人間が近付くとさ。

 

はっ!って顔して。まあ顔はしっかり確認してないからわかんないけど、大概逃げるじゃない。あれは、なんでなのかなあって、この間、サツキ先生と公園で話してたんだ。」

 

店長と家以外で酒を飲むことは滅多になかったが、数ヶ月に一度くらい、サツキさんが仕事でどうしても都合がつかない時にだけ、二人で酒を飲みに外に出掛けることがあった。

 

ホッピーのナカのDNA

 

大抵は赤羽の駅前から少し離れた場末の焼き鳥屋で、客が十人も入ればパンパンになり、客も、そして店員も身動きが取れなくなるような小さな店だった。そして店の中はいつ行っても見事にパンパンだったため、決まって二人は店の外のドラム缶をテーブルにして、立ち飲みをするというのがお決まりだった。ぼくも店長もタバコを吸わなかったので、パンパンの店内に充満したパンパンのタバコの煙にダメージを喰らわないためというのがひとつにはあったのだが、もうひとつは単純に、外のほうが気持ちがよかったからだ。夏は日中の熱をかすかに残した夜の空気が心地よかったし、冬は皮膚をつねるような冷たい風に吹かれながら飲む熱燗がこれまた心地よかった。だからもし店内にまだ客がひとりもいなかったとしても、ぼくたちは真っ先に外のドラム缶を陣取って、酒を飲んだに違いない。

 

「人間が自分たちを脅かしているっていう情報が、DNAか何かに組み込まれてるんじゃないですか。DNAがいったいどんなものなのか、ぼくはよくわからないけど。」

 

店長は給仕のおばさんに手を上げて、漬物の盛り合わせを頼んでから、追加でホッピーのナカを注文した。

 

「DNAか、デオキシリボ核酸。デオキシリボって英語?なんでデオキシリボまでカタカナなのに、核酸だけ漢字にしたんだろうな。ややこしいな。全部カタカナにすればいいのに。」

 

「確かに。世界はややこしいことに溢れていて、時々、いや時々じゃなくて、毎日毎日嫌になります。」

 

漬物の盛り合わせとホッピーのナカを運んできたおばさんの胸元にはネームプレートが垂れ下がっていて、「ウメちゃん」と書かれていた。店長はそれをじっと見つめながら、グラスに残ったホッピーを飲み干した。

 

「おばちゃん、ウメっていう名前なんですか?」

 

「あっ、これ、これは偽名よ偽名、あたしはそんな明治生まれみたいな名前じゃないわよ。この間アルバイトでさ、若くてかわいい女の子が入ってきてさ、その子がネームプレートを付けましょうよとか余計なことを大将に言い出したから、大将がデレデレしちゃってね、じゃあみんなで付けましょうってさ、まったくバカみたいね。だから偽名よ、偽名。こんなもんなんだっていいのよ、ウメでもオカカでもメンタイコでもさ、どうせこんなばあさんのネームプレートなんて、誰も見てやしないでしょ、見てるのは酔っぱらいのバカばっかりだかね、はっはっはっはっ、お兄さんのことじゃないわよ。」

 

ぼくと店長はおばさんの大笑いにつられて、大いに笑った。

 

「つっちゃんと酒飲んでる時が、人生で二番目くらいに楽しいよ。」

 

「あっ、一番じゃないんですね。一番はサツキさんと酒飲んでる時ですか。」

 

「サツキ先生と酒飲むときはさ、ほとんどつっちゃんも一緒だからさ、それもまあ二番目だな。」

 

「じゃあ、一番はなんですか?」

 

「人生で一番に楽しいことか。人生で一番に楽しいことってなんだろうなあ。難しいなあ。つっちゃんは?」

 

「あっ、伝家の宝刀質問返しですか。そうだなあ・・・確かに難しいなあ、人生で一番に楽しいことかあ。二番目は店長と酒飲むことだとして、一番目かあ。一番目ねえ・・・そんなもの、この世界に存在しますかねえ。たぶんDNAには組み込まれてないんじゃないですか、人生で一番に楽しいことって。」

 

店長はグラスの中身をすごい勢いでグビグビ飲み干してから、「そうかもな。」と言ってニヤつき、給仕のおばちゃんに手を上げた。

 

「すいません、ホッピーセットと、あと・・・、」

 

注文の途中でぼくの方に顔を寄せた店長が、「人生で一番楽しいもの、頼んだら出てくると思う。」と、蟻のため息のような声で囁いた。

 

 

 

 

月白貉