ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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昆虫ワールド

「時々さ、日々の意味がよくわからなくなるよ。

 

いま自分がさ、朝、眠いのに起きて会社に行ったり、意味不明なことで嫌な思いしたり、無理に笑顔作らなきゃいけなかったり、お金の心配したりさ。そういうことしながら生きててさ、いったい何か本質的に見つけるものがあるのかなあって。それっていったい、なにしてるのかなあってさ。」

 

店長は酒が好きで、週末の昼過ぎになるとほぼ必ず、ぼくにメールを送ってきた。「きょうの夜は何やってる?もし時間があれば、ウチで酒でも飲もうよ。サツキ先生もいるからさ。」というのが、いつも変わらない文面だった。それは普通に考えれば、雛形として登録されていてもおかしくないほど、繰り返し繰り返し使い古された言い回しだったが、おそらく彼は毎回毎回、その文面をゼロから書いていると思う。もしぼくが同じ立場でも、たぶん雛形などは使わずにそうしたと思う。だからきっと彼も、そうしているに違いなかった。

 

店長の家に酒を飲みにゆくと、必ずそこにはサツキさんがいた。

 

「ウチで酒を飲む」という言葉からすると、ビールとか缶酎ハイなんかをたくさん買って、近所のスーパーマーケットかコンビニエンスストアで、ピーナッツだったりチーズだったり、あるいはコロッケとか唐揚げなんかをたくさん買って、ダラダラと飲んだり食べたりするという、大衆的な簡易酒宴のイメージが強いかもしれない。けれど、そこにサツキさんがいることによって、酒を飲みにゆくというよりは、どちらかと言えば夕食に招待されるという表現のほうが正しかった。サツキさんはいつも、ぼくたち二人のために美味しい料理を作ってくれた。家庭的で素朴な和食の時もあれば、レストランで出されるような本格的なフレンチやイタリアンやチャイニーズの時もあった。ぼくが一度、手みやげ程度にスナック菓子を持って行ったことがあったけれど、ストレートに怒られた。

 

「あたしね、お菓子食べながらお酒飲むの、キライなのよね。それ以前にそういうお菓子が、キライなのよね。つっちゃんがお菓子食べたいなら、今度ちゃんとしたお菓子を作ってきてあげるから、今日はそれ、没収します。」

 

ぼくが店長の家に到着して部屋にあがると、テーブルには中華料理が並んでいた。焼売、水餃子、春巻き、青椒肉絲、麻婆豆腐、棒々鶏、そして何か中華風の胡瓜のサラダ。その横には、イタリア産の赤ワインが二本置かれていた。

 

「わ〜、すごい、今日は中華ですか。」

 

「つっちゃん、何飲む?おれはビール飲むけど。サツキ先生、冷蔵庫に白ワインもあるんだっけ。」

 

「きょうは白はないけど、スパークリングがあるよ、あたしはスパークリングが飲みたいな。」

 

「あ、じゃあぼくも、スパークリングにします。」

 

サツキさんがシェフ、店長がホスト、そしてぼくは、大切なゲストというのが、いつも役回りとして自然に決められていた。ぼくは店長とサツキさんが付き合っているということ以外は、二人の間のことについてほとんど知らなかった。「サツキ先生もいるからさ」とか「サツキ先生と待ち合わせをしてるからさ」とか、店長はよく言うことがあったから、おそらく同棲しているわけではないようだったが、ぼくがいつも店長の家を訪れると、そこには必ずサツキさんがいたので、ぼくにとっては、この場所は店長の家ではなく、店長とサツキさんの二人の家のように感じていた。

 

サツキさんは台所の流しで、空いてしまった皿を洗いながらアデルのローリング・イン・ザ・ディープを鼻歌で歌っていた。

 

「日々の意味ですか。」

 

「なんかさあ、人生の目標とかさ、生きる希望とかさ、誰かに説教するみたいにしてさ、さも自分が言っていることが正しいみたいに、大声出して笑顔でアツく語ってる奴とかいるじゃない。そういう奴に限ってさ、他の誰かを非難したりバカにしたりしてさ、結局は足で顔を蹴飛ばしたりしてるんだよな。そういうのおれ、キライでさ。」

 

「店長は日々の意味って、何だと思うんですか?」

 

店長は「わからん。」と言って、グラスの赤ワインを飲み干した。

 

「この間さ、公園で本読んでたら、足元にダンゴムシが二匹いて、モソモソ何かしてるわけさ。それが気になっちゃって、何をしてるのかなあってずっと見てたんだ。最初は交尾してるのかと思ったんだけどちょっと違うみたいで、何だか顔をぶつけあったり、一匹が円を描きながら回る後をもう一匹が追いかけてみたり、少し離れて向かい合って、触覚を交互に微妙に動かしてみたり。結局気がついたら、おれ一時間くらいずっとダンゴムシを見ててさ。もっと見てたかったんだけど、雨降ってきたから、家に帰ってきた。」

 

昆虫ワールド

 

店長は二本目の赤ワイン開けてぼくのグラスになみなみと注いでから、台所のサツキさんに目を向けると、なんだか仏像みたいな穏やかな笑みを浮かべた。そして空になった自分のグラスにワインを注いだあとにサツキさんのグラスにもワインを注ぎ足そうとしたが、「あっ」と小さく呟いてから、注ぐのをやめた。

 

ダンゴムシは何してたか、わかったんですか?」

 

「わからん。でも、帰り道で思ったんだけど、聞いてみればよかったんだよな、二匹の間に寝転んで、聞いてみればよかったんだよ。」

 

「耳の中とか鼻の穴に入ってきちゃいますよ。」と言ってぼくが笑うと、「それは嫌だな。」と言って店長も笑った。

 

ぼくは口には出さなかったが、店長の話を聞いていて、ダンゴムシが何をしていたのかが少しだけ分かったような気がした。

 

 

 

 

月白貉