ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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大仏リアリティ

いつからか知らないが、近所に大仏がある。

 

子どもの頃は、こんな場所に大仏はなかった気がする。

 

大仏を見上げていると、向こうから寺の住職が歩いてくるのが見えたので、近付いていって大仏のことを聞いてみる。

 

「この大仏は、いつからここにあるのでしょうか。昔はなかったと思うのですが。」

 

住職は「あっ」と言う顔をして、しばらく頭を右へ左へと傾かせて、目をクルクルと回転させた。

 

「はてねえ、わたしも気付きませんでした。確かに昔はなかったですねえ。」

 

「えっ、大仏というのは寺の関係者が建立するのではないのですか?」

 

「皆さん、そうおっしゃいますが、そこはちょっと違うのです。もちろん、寺がお金をかけて仏師に依頼して、という場合もありますが、あれは厳密には大仏ではないのです。大仏風のものです。」

 

「では、本当はどうやって大仏を?」

 

「あちらから来ます。大仏が勝手にやって来るのです。つまり、人間の手によってつくられたものではなく、どこでどうやって発生しているのか、わたしのような一介の僧侶の知るところではありませんが、どこかで発生している大仏が、自らの意志のようなもので歩いてやってきて、好きな場所を見つけてお座りになられます。バカなことを言うなとお笑いになる方もいらっしゃいますが、実際にそうなんです。」

 

「えっ・・・、大仏は生き物なんですか?」

 

「生きているという概念は、人間が考えだしたものです。どういった状態を生きているというかについては、勝手に人間が決めてしまっている。それは人間の中だけで成立しているものの見方です。例えば、木は生き物だけれど、石は生き物ではない。厳密には、私は学者ではないので知りませんが、例えばです。でも石を生き物だと認識できないのは、人間だけかもしれない。例えば地球を一個の生き物だと唱える学者もいます。それは自然崇拝の対象のような宗教的なものではなく、意志を持った生き物だと、そう言っている人もいます。人間の体の中や表面には、無数の小さな小さな菌類が生きていますね。でも彼らが人間を生き物だと認識しているのかどうかはわからない。人間が地球上で暮らしているのと同じことだと、そう言っています。つまりは、何か次元の違いのようなものが存在していて、自分たちの階層のこと以外はなかなか知り得ることが出来ないのかもしれない。」

 

「じゃあ、もしかしたら、このような大仏のたくさんいる場所が、人間の知り得ない次元にあって、そこにいる間は人間には認識できないけれど、時々、大仏は自らの意志で人間の認識圏内にやって来て、こうやって、座るということですか・・・。」

 

「まあ、大仏と呼ばれるものの一部は、そういうことです。今ではそれを模して、人間が自分たちで作っているものが大多数でしょう。しかし、この大仏はねえ、こちらの寺ではつくっていませんので、本来の大仏ということです。」

 

「住職は、なぜそんな・・・、そんなことをご存知なのですか・・・?」

 

住職は、声のトーンをぐんと落として、こちらに顔を近付けた。

 

「私が大仏だからです。こうやって人間の僧侶のようにしてこちらにやって来ましてね、好きな場所を探して、よっこいしょと座ると、この姿に変化を遂げるわけですよ。ここは先を越されましたから、別な場所を探さなければ、では、またどこかで、ごきげんよう。」

 

「は、はい・・・。」

 

僧侶はそう言って、さざなみのように去っていった。

 

大仏リアリティ

 

 

 

 

月白貉